前回の泉涌寺聞香体験から随分サボリ続けてしまいました。

今回はその続きです。

こちら泉涌寺の勅使門です。天皇のおつかい人(勅使)か皇族の人しか通れない門です。

昭和天皇はこの門の前から玄関までは御所車に乗って移動したそうです。

その後の天皇(今の上皇さま)からは、ご自分で歩いて向かわれたとのこと。

確かに御所車と言われても令和の時代にピンときませんよね。

玄関を通られて一旦御座所でご休憩をなさいます。

こちらがその後座所繧繝縁の畳が二重に敷かれています。

この後のお部屋が皇后陛下の後休憩所になっているようです。

こちらは門跡の間。襖絵は全国六箇所の玉川の風景を描き御座所の中でも特筆される作品で、筆者は京狩野家9代目の狩野永岳(1790~1867)の若書(わかがき)であることが近年になってわかったそうです。部屋の左手に近江の野路、摂津の三島、正面に武蔵の調布、山城の井手、右手に紀伊の高野、陸奥の野田の各玉川が描かれています。井出の玉川では馬に乗る狩衣の人物が山吹の咲く川辺で休んでいます。曲がりくねった松が個性的に描かれています。

普段の特別公開では写真撮影は禁止ですが、今日はいくら撮影してもOKとのことでシャッターを押しまくりました。

こちらは勅使の間。背の高い椅子ですね。菊の御紋が入っています。

 

続いては女官の間。こちらで女官達が天皇へのお茶などの接待の準備をされたそうです。

障壁画は、「四季工作図」で農村の移り変わる季節の平和な風景が細やかに描かれています。京都近郊にはこのような農村風景が広がっていたとはいえ、外出機会の少ない皇族の方々や女官達にとって、農村に活きる人々の生活を知り、思いを馳せ心を和ませていたそうです。

茶箪笥が置かれ女官達がお茶を入れていたお部屋のようです。

こちらは皇族の間。御座所の一番奥にありここが御里御殿御殿での出産之間と推定されています。障壁画は「「奈良八景」で「猿沢の池の月」「南円堂の藤「佐保川の螢」「東大寺の鐘」「三笠山の雪」「雲井坂の雨」「轟橋の行人」です。「奈良八景」が描かれたのは、春日大社、東大寺、興福寺といった皇室と藤原氏にゆかりの深い神仏の加護を祈ったのだと言われています。

御座所から正面の庭を通して奥に見えるのは、歴代の天皇の墓がある霊廟です。

天皇はいまでは神式として祀られていますが、江戸時代までは神仏習合で天皇の位牌も全てこちらに収められています。上の写真は代々の天皇の名前が記されています。昭和天皇まで書かれていました。天皇には戒名をつけないのでそれぞれの天皇のお名前が記されています。

こちらの藏の中のお堂は、皇室の持仏堂です。一年365日毎日毎朝、後回向を申し上げているそうで、我々一般人でも希望すれば宗派に関係なく回向していただけるそうです。歴代天皇の位牌もこちらに安置されています。

 

御座所めぐりはこれぐらいで、ご仏殿に向かいます。

こちらは白衣観音図。江戸前期を代表する画家・狩野探幽(1602~1674)が晩年に泉涌寺の仏殿のために描いた大きな観音図です。後水尾天皇のご支援のもと、四代将軍徳川家綱が物資を援助して寛文四年から九年までの六年にわたって戦国時代に荒廃した堂宇の大造営が行われました。その時に図は寛文九年三月十九日に泉涌寺に到着し、見事な出来映えと記されています。探幽は当時68歳でした。

仏殿の天井画。こちらも狩野探幽作で寺僧達からは「灯台無双の妙手」と艦隊の声が上がったと言われています。

高い須弥壇には運慶作と伝わる阿弥陀・釈迦・弥鞠の三尊仏が安置されています。

最後になりましたがこちらが仏殿全景。仏殿は禅宗様を代表する建築であり重要文化財となっています。

以上、仏殿は普段から公開されていますが、他は特別拝観。写真撮影OKという特別待遇でお参りさせていただきました。

 

次回は、洛北光悦寺などを巡りたいと思います。なるべく早くアップできればと思っていますが、マイペースでやりますのでご容赦ください。