プロデューサー第1の試練~史上最大の敗者復活戦 | 今だから話せるウルトラクイズ裏話

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17年にわたって放送された「アメリカ横断ウルトラクイズ」。構成作家として最初から最後まで関わってきました。放送出来なかったエピソードや裏話を思い出すままに綴っていこうと思います。

メリカ横断ウルトラクイズは毎年日本テレビ木曜スペシャルという番組の枠で放送されました。
しかし、その枠を外れて放送されたことが一度だけあります。
それは、1982年の12月31日の大晦日、世の中はNHKの紅白歌合戦で盛り上がっている真っ只中に、ウルトラクイズをぶつけようという乱暴な企てだったのです。
それも企画は急遽決まったように記憶しています。
その年のウルトラクイズが放送されている時に、突然呼び出されて「大晦日の紅白歌合戦」の裏番組として、ウルトラクイズの別バージョンを放送する事に決まりました。
それが『史上最大の敗者復活戦』です。

風に言うなら「スピンオフ」企画でしょうか。
「構成、クイズ問題」の制作は今から間に合うように準備して欲しいという話でした。

れまでの1年間、ずっとウルトラクイズの準備に架けていた私としては、晴天の霹靂とも言うべき驚いた話でした。
しかし、当時の私は仕事の話を断れるほどの立場ではありませんので、

「はい。何とか出来ると思います」

と答えてしまったのが人生を大きく変えてしまう始まりだったのです。

故なら、クイズ番組の発注と共にとんでもない言葉が続いて発せられたのです。

「ついては、日テレ局内には今手の空いているプロデューサーがいないので、プロデューサーも兼務してくれ」

との事です。

時の私は、テレビ番組に携って、20数年のキャリアはあるものの、プロデューサーなどという経験は全くありません。
そんな素人同然の私が、今まで手にした事も無いような大きな予算を抱えて、どのように配分するのか、皆目検討も付かない状態です。

れまでの感覚では、プロデューサーは番組の頂点にいて、好き勝手な意見を言いながら、威張っている存在と思っていました。
まあ、ぶっちゃけた話、気楽な小山の大将といった印象だったのです。
しかし、いざ引き受けるとなると、とんでもない責任を負わなければなりません。
何しろ番組の総責任を負わなければならない立場なのですから。
『史上最大の敗者復活戦』は、12月31日の夜、3時間半の生放送でオンエアされる事が決まっています。

加資格は、それまでの7年間に後楽園球場に来た事のある敗者は、誰でも参加出来るという事だけが決まっていたのです。
それからテレビを通じて出場者の募集が始まりました。
幸先は良く、応募者は10万人を軽く越えました。
その中から書類審査をして、5万人近い(※)人達が参加資格を得ました。

(※)
ウィキぺディアの資料によると、予選のため後楽園に集まった敗者は24,642人と出ていますが、私の記憶では5万人を超えて、入場出来ない人が居たりして大変な思いをしたというのが真相です。
少なくとも5万人以下ということはありませんでした。

れから、番組プロデューサーとしての試練が始まったのです。

1の試練は、会場探しから始まりました。
後楽園球場の○×クイズに勝ち残った人達が、東京近郊を移動しながら、クイズの予選をしなければなりません。

の、クイズ会場として東京近郊の有名な神社仏閣が良いのではないかという案が出ました。
そこで、初詣で有名なお寺として、成田山新勝寺が候補に上がりました。

↓成田山新勝寺

成田山新勝寺


こならば関東地方では有数の参詣人が集まる著名寺院であり、クイズ地としては最適といえるでしょう。
そこで、成田山を訪問して番組のロケ地としての許可をもらおうと申し込んだのです。

ころが担当者として、現れた広報の係りの方は、断固としてテレビの撮影には協力出来ないという拒否反応が出てしまったのです。
理由は、少し前に他のテレビ局のバラエティー番組の撮影場所として、境内を提供したのだそうです。
ところが何と、境内の入り口にあった狛犬さんを真っ赤なペンキで塗ってしまったのだそうです。
そして、そのまま帰ってしまったというのですから、関係者はカンカンに怒っていたのでした。

↓新勝寺の狛犬

成田山狛犬


この局かは知りませんが、同業者のとんだ不始末で、私のプロデューサーとしての第一歩は苦難のスタートになってしまったのでした。
その後、新勝寺さんのテレビ局に対する考え方も次第に変わったと思われますが、その当時は取りつくしまも無いほどの勢いで怒っていました。

結局、この時は寅さんの映画で有名な「柴又の帝釈天」がクイズ会場として決まったのでした。

↓柴又帝釈天

柴又帝釈天