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やすにいさんのブログ

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おはよう!(って、遅いか!)
今日もブログを読んでくれて、ありがとう。

では、遅めのモーニングコーヒー、はじまりはじまり。

私の甥っ子は、ちょっと個性的だ。いや、かなりかも・・・。

例えば幼稚園のお絵かきの時間。
お題は「お友達の絵」。要するに自分の近くにいる子を描いてちょうだいなってことだ。

どの子の絵も、絵の中のお友達はピンクのスモッグを着ている。
そりゃそうだ。お絵かきの時間だから、実物もみんなピンクのスモッグを着ているんだから。

ところが甥っ子の絵の中のお友達は、紺色の服を着ている。
母親(=私の妹)が「どうして」って聞くと、「だって服は紺じゃん」と返ってきた。

それを聞いて私は「ははぁ」と思った。
彼はスモッグを非日常と捉えていて、「日常的なお友達」を描くんだという意思で、その幼稚園の制服である紺色で塗ったんだなぁと。

特筆したいのは、
目の前に見える表面的な出来事を、彼なりの視点でとらえなおしている。
周囲に自分を合わせず、自分の意思で行動選択している。
ということだ。


そういう内面的なものが、結果として彼を個性的に見せているのだろう。

ほかにもエピソードは満載だ。

紙粘土の作品では、周囲の子たちがことごとくリスやクマといった、童話などを通じてポピュラーな動物にもかかわらず、彼はロブスターを題材とした。

しかも、リスやクマはマスコット化されているものの、彼のロブスターはリアルそのものを追求していた。

そして・・・なんと・・・使用している粘土の量がハンパない。
ほかの子の2~3倍は使用していると思われる大きさだった。
展示場でそのロブスターは、燦然と輝いていた。

もう一つ。今度はお習字。
展示場には「うさぎ」と書かれた作品が、壁を埋め尽くすように貼ってあった。

ところが・・・いくら探しても彼の作品がない。どうして?

母親(私の妹)が言うには、どうやら「うさぎ」って書かなかったらしい。
で、なんて書いたか?

天・地・空

とかなんとか書いたらしい。
いやはや、驚いた。

幼稚園児が何でそんな字を知ってるんだってことより、先生が「うさぎ」って書いてくださいって言ったのに、何で違うことを書いたのか?
彼曰く

「そう書きたかった」

そうである。

先生はなぜ、彼の作品を貼り出さなかったんだろう?
自分の指示を無視されたから?まさか・・・。

要するに統制をとりたかったのだろう。
ひとり違うことを書いてる子供が許されてしまうと、急増中のバカ親たちが「何であの子だけ!」って騒ぎ出すのを恐れたんじゃないかな。

ところで、幼稚園は子供にとって社会を学ぶ場でもある。
ということは、統制や協調の重要性を教えることは是と思う。

(幼稚園はおろか高校になってまで統制と強調の重要性を学ばなかった私は、社会に出てメチャメチャ苦労し、後悔させられた)

ただ、統制や協調って何のためなのか?

連載中のブログ「成功ノウハウ本の活かし方」でも触れたとおり、人間が生き生きと人生を送るには、自分の強み(=その人ならではの個性)を活かすことが欠かせない。

であれば、統制や協調は個性を活かすための手段なんだから、不必要に個性を抑えてまで強いるというのは、本末転倒なんじゃないか?

そもそも卯年だからといって、なんで皆が皆「うさぎ」って書かなきゃなんないんだ?
問題はそこにあると思う。

習字の時間にお絵かきをやっている。それは統制上問題だろう。
(それを許された子は、社会に出て痛烈な目に合う)

しかし、干支の意味も知らない、既成概念に縛られていない子供たちに、一律に「うさぎ」って書きなさいってゆーのは、なんの意味があるんだろう。
そーいうのは、幼稚園じゃなく、書道教室でやりゃーいいんじゃない?

企業コンサルでよく遭遇する「手段と目的の逆転現象」が幼児教育でも見られるのかもしれない。


で、今日の本題はこの先だ。
もうちょっとお付き合いを!


ある日、私の実家(東京都中野区)で、母と妹と私の3人で雑談をしていた。
甥っ子は少し離れたところで、ブロック遊びをしていた。

話題はもっぱら、甥っ子のことだった。
「ホントにこの子は変わってるわよねぇ」「周りのことなんか全然気にしてない」「将来どうなるのかしら」「博士かなんか?」「そうなればいいけど・・・」「でも楽しみよねえ」
的な、かなり個性を肯定的に評価する内容だった。

すると、夢中で遊んでいたと思われた甥っ子が、するするっと私たちのほうへ近づいてきて、「ねえ、僕を見て」って顔をしている。

よくよく見ると、頭の上にバナナの皮を乗っけている。

母も妹も爆苦笑(新語?)し、「やっぱり変わってるわ」と結論づけた。
すると甥っ子は、それを確認したかのように、またブロック遊びに戻っていった。


このときの甥っ子の行動は、個性が何であるかを示す、象徴的なものだった。


実は、この行動は個性でもなんでもない。私にはわかった。


甥っ子は遊びながら大人の会話に耳を傾け、そこから「自分がどう評価されているか」を悟ったのだ。そしてその評価に沿った期待に応えようと、かなり作為的に動いたのだ。

推測の域を出ないが、それは賢すぎる故ではないか、と思う。
で、そういう甥っ子からは、いつもの剥き出しの個性は何も感じず、私から見ると、他者の価値観におもねる没個性的な子供でしかなかった。

個性的な人とか、普通の人とか、いろいろ言われるが、個性ってなんなのか?


それは、剥き出しの自分をさらけ出すことだ。


人は誰だって、その人ならではの個性を持っている。
だからこそ自分=他と自らを分ける、ってことなんだ。

にもかかわらず、他者の評価に寄り添おう、他人の価値観に合わせよう、と思えば思うほど、自分ではなくなり、没個性化していく。

では、人はなぜ、自分であろうとする前に、他者の価値観に合わせようとするのか?

もちろん、先ほどのような教育の影響は大きいだろう。
でも、本質はそこじゃない。

教育も含めた世の中すべてが、全般的に他人の価値観を受け入れないからだ。


人である以上、他者から否定され続けては生きていけない。
自分をむき出しにして否定されることと、自分を押し殺して受け容れられること、どっちかって迫られれば、多くの場合、無意識に押し殺すほうを選んでしまうだろう。

それが没個性人間を大量に生み出すこの世の真実だと思う。

そんななか、個性的でいられるやつって、どんな奴?

それは、自分に自信を持てている奴だろう。
自分自身に高い価値観をもっていれば、他者から受け容れられなかったとき、自分に戻ってくりゃいい。


でも、自分より他者のほうが価値が高い、上だって思ってしまえば、その相手から否定されれば行き場を失う。
ここで言う相手ってゆーのは、個人だけでなく、集団や地域や社会も含む。

では、どうすれば自信を持てるのか?自分自身に高い価値を感じることができるのか?

親の育て方、学校教育、出会い(人、経験)・・・いろいろな外的環境が影響する。
が、しかし、外的環境は自分でコントロールしにくい。

外的要因だけが自信に影響するんだったら、人生は運ってことになってしまう。

そんなはずはない。


人生は、そんなダサい設計図で制作されているはずがない。


であれば、自分の内面を見つめ、自分の意思で自信を高め、自分という人間に対する価値観を強めていく方法があっていいはずだ。


実はそれが「成功ノウハウ本の活かし方」に書かれているわけだ!
どう?ブログを継続して読んでくれる動機づけになったかな?

え?その前に文章が長すぎるって?
はい、自覚してます。すんません・・・。


では、なが~いモーニングコーヒー、これで終り。

これからもお楽しみに!

byやすにいさん