こんばんわ!
いつもブログを読んでくれて、ありがとう。
多くの方が、今日のこのテーマを、歓迎してくれるんじゃないかな?
なにしろ、太宰治のファンは多いから。
近頃、村上春樹氏が、満を持して?作品を発表したよね。
私はあれ、たぶん一生読まないんだ。
村上春樹先生の爪の垢を煎じた、そのダシガラにもなんない私が言うのもなんだけど、
締まりのない題名の小説は、これまでの経験で言うと、読んで心にヒットした記憶がない。
例えば、村上氏の作品で言うと、「風の歌を聴け」これ、サイコーだったね。
このデビュー作でまったく惚れてしまった。
で、ピンボールくらいまではまだ読めたけど、その後の“ひつじ系”は、外しっぱなし。
あの、読みやすいかどうかで言うなら、チョー読みやすいよ。
でも、読みやすいってことが、イイ作品なのかな?
そこを疑いたい。
ムラカミ作品を読んだ人の感想を聞くと(たとえばTVの街頭インタビューなどで)、「一気に読んじゃいました」という手合いのものが、とても多い。
するとTVも、「やはりムラカミ作品は・・・」ってな感じで、読者の感想に迎合する。
そこには、「ムラカミ作品はすごいって言いなさい」というディレクターの意思が、明確に吹き込まれている。
これでニュース番組なんだから、まず驚く。
あ、太宰論が何で村上春樹論になってるんだって?
そー、因果関係がわかんないよね。
それは、村上春樹と太宰治が対照的だから、まず村上先生を出すと、あとの論説がくっきりしやすいからなんだ。
もともと私は、ムラカミ作品の虜だった。
なにしろあの「風の歌を聴け」ってやつにやられてしまった。
ストレートに、スパッと心象風景が伝わってきた。
もし自分にこういう小説が書けたら、そのまますぐ天に召されていいってくらい、感銘した。
だから、その後の作品に対する期待がどれほどだったか・・・。
でも、その後の作品で魂をふるわせられるものは、一切なかった。
そこに見たのは、創作のための創作だった。比喩のための比喩だった。
感じたことを瞬時に印画紙に焼いた表現と、考えに考え、読者の反応まで踏まえて選んだ表現とでは、読後感が全く違う。
見抜き方をお伝えしよう。
読んですぐ、パッと情景が浮かぶ。しかも「そうそうそう、そんな感じ」ってビンビン来てしまうのが、瞬時に印画紙に焼いた表現。
読んでみて「なるほどなぁ、うまい表現だなぁ」ってしみじみ思うのが、読者の反応を踏まえて、練って練った表現。
って、こんな程度の事前知識を持って、太宰を解明していこう。
今日の題材は、「狂言の神」だ。私の好きな作品の中でも、屈指のものだ。
おそらく、読んだことのない人が多いんじゃないかな?
でも、これを読んだ後、ムラカミ作品を読んだら・・・
そして、何度も繰り返し読みたくなる度合いが、名作か否かを判別するんだったら、
そのあまりの差に、歴然とするんじゃないかな?
ハルキストなぁ~んて言われる人たちには申し訳ないけどね。
さて、私は太宰作品を褒めちぎりたいだけじゃない。
ダサい表現は、ダサい。
新潮文庫、二十世紀旗手の8ページ。中ほどに「かれの生涯の悪癖、含羞の火炎が、浅間山のそれのように突如、天をも焦がさん勢いにて噴出し・・・」の表現だけど、
“浅間山”という比喩を使う必然性はないよね。
私は群馬で育ったからまだしも、現代人が読んだら、「浅間山?なにそれ?」って思う人も多いと思う。
もしかすると、この近辺に浅間山が噴火し、「天をも焦がす」を比喩するにはぴったりだったのかもしれないけど、浅間の噴火を知らない世代が読んだら、???なだけだ。
賢く遅筆の芥川は、絶対にこんなミスを犯さなかった。
しかし、ミスはこの一行のみで、他はリズムといい、的確という表現が陳腐なくらいの素晴らしい比喩的描写は、神がかりとしか思えない。
もちろん、描写といえば、川端康成や三島由紀夫も素晴らしいんだろうけど、スピード感が全く違う。
ローカル列車の車窓から見れば、凡庸な景色も味わい深い。
でも、新幹線の車窓から見て「おっ!」と思える風景は少ない。富士とか天竜川とか。
スピードを落として精度を高めるのは、秀才にとっては訳ない。
が、スピードと精度を両立する太宰は、やはり天才だと思う。
三島由紀夫で言うなら、「潮騒」は素晴らしい。でも「金閣」は一度読んだら、もういいかなって感じだ。長さが魅力になってない。長いことで魅力を演出する余地を生み出している。
ということで、「狂言の神」における素晴らしい表現を一節ピックアップしよう。
ちょっと長い引用だよ。
「このように物静かな生活に接しては、われの暴(あら)い息づかいさえはばかられ、一ひらの桜の花びらを、掌(てのひら)に載せているようなこそばゆさで、充分に伸ばした筈の四肢さえいまは萎縮して来て、しだいしだいに息苦しく~中略~なんにも言えず飼いならされた雌豹のように、そのままそっと、辞し去った」
もちろん、前後を読んでいない方には、ピンと来にくいだろう。
前後を読むと、このアンダーラインの表現は、表現だけで感動させてくれる。
もしこのブログに触発されて、狂言の神をお読みになるなら、太宰が自殺の手段に縊死を選ぶくだりがサイコー傑作だ。
よくもまあ、こんなにきれいに自分が死ぬ手段について解説できたもんだ。
で、やはり私のような凡人は、比較によって天才を知る。
隣にハルキ作品を並べてみるといい。
ハルキストさん達は、そのあまりの才能の違いに、慄然とするだろう。
でも、村上春樹氏がノーベル文学賞候補ってのは分かる。
外国人に太宰の天才ぶりは理解できない。
いくらノーベル賞は死んだ人に与えられないってったって、もし太宰の文章を知ってしまったら、村上氏に授与したくなるかどうか・・・。
え、比べて何がわかるって?
要するに、村上氏は読者を惹きこむにあたって、ストーリーへの依存度が高い。
じゃあ、そのストーリーがどれほどの価値かって?
ノルウェーの森、読んだ人はたぶん多いよね。
ストーリー覚えてる?
仮に覚えていたとして、そのストーリーにどれだけの価値を感じる?
普遍性を感じる?芸術の観点で言うなら一体何が残ってるの???
そして比喩的描写は、これはもう、練りに練って、あるいはパッと閃いたにしても「うん、我ながらうまい表現だ」っていう作者の声が聞こえてきそうな・・・どうしてもそういう風にしか受け取れないんだ。
きっとハルキ氏が一番よく分かってんじゃないのかな。
「風の歌を聴け」がサイコーの作品だったって。
で、太宰に戻るけど、一番の人気作「人間失格」を今日、12年ぶりくらいに紐解いた。
なにしろ、小説家をあきらめ筆を折ってからというもの、芥川も鴎外も太宰も、一切手に取らなくなった。
手に取ってしまったら、性懲りもなく文学青年の、なんちゃってデカダンが顔をだし、仕事に支障をきたすんじゃないかって思い、あえて本棚の奥に押しやってきた。
でもきっと、心の余裕ができてきたんだろう。
今日、なんのわだかまりもなく、ふと「人間失格」を手に取った。
で、驚いた。そのあまりの読みやすさに。
そして感嘆した。
「ああ、これはぜんぜん太宰じゃない」って。
太宰は、人間失格に自分を描いている通りに、最後の最後まで、この「人間失格」を執筆する姿勢をもってしてまで、お道化を通したんだなって。
人間失格は、太宰の最後の断末魔の声でもなく、自身の集大成でもなんでもなく、ただただ、夏の夜の花火のように、最後にパッと一花咲かせ、読者に、それも非常に幅広い読者に喜んでほしいと、その一心で書いただけなんだと、感じた。
太宰を知る何の手がかりにもなりゃしない。
彼の単なるサーヴィスだ。
太宰も天で、しめしめって思っている通りだ。
彼の思惑通り、人間失格に感銘して「オレは太宰ファンだ」って人、たくさん生み出したからね。ホントはまったく逆なのに。
彼は、周囲に理解されたいと熱望しながら、その慧眼ゆえ、それが不可能と思い知り、だったらいっそ、自分なんか煙に巻いて全く理解させないようにしてしまおう。
そう思ったに違いない。
ではまた。
byやすにいさん