米ソによる占領 www.bag-hermes.com | ullmannvnのブログ

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米ソはもともと互いの軍を朝鮮に進駐させる計画だったが、戦後処理を北緯38度線の南北で分担することなどを決めているにすぎなかった。しかし、アメリカはソ連が朝鮮全土を占領することを恐れ、急遽、北緯38度線を境に南を米軍、北をソ連軍が分割占領することでソ連と合意した。

米軍による日本本土占領やソ連軍による東欧諸国への占領に比べると、朝鮮占領については米ソとも準備が足りず、両国軍が朝鮮の内情を把握していなかったことや占領政策が一貫しなかったことは、特に主要都市であるソウル市で大きな政治混乱を生む一因となった。このことは、その後の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の建国による南北分断のみならず、両国内のその後の政治にまで大きな影響を及ぼすこととなった。

ソ連軍はアメリカ軍より早く朝鮮への進駐を開始し、8月24日、咸鏡南道咸興に到着したが、朝鮮半島北側の中心都市が平壌であることを知ると平壌へ後退した。8月26日までにソ連軍は平壌進駐を終え、ソ連側占領軍は朝鮮総督府の行政機関の存続を認めると布告したが、このことが朝鮮人の不興を買い、また実際に行政機能が失われていることを知ってこれをすぐに取り消した。これらの経緯もソ連軍の南下が早すぎ、準備不足であったこと物語っている。

ソ連軍は在ソ朝鮮人・ソ連生まれの朝鮮人を投入して占領政策を遂行しようとした[5]。9月19日にはソ連領内に退避していた金日成(後の朝鮮民主主義人民共和国主席)ら元・満州パルチザンたちが元山に到着したが、彼らは各地に分散しすぎたり、地元の共産主義者と対立するなどして政治的主導権を得ることに失敗し、あらかじめソ連と取り決めた役割を担うことができなかった。以降、金日成の権力基盤が安定するまで38度線以北では激しい権力闘争が続いた。

9月7日、アメリカ軍がソ連に遅れて進駐を開始し、9月11日アメリカ占領軍は38度線以南で軍政を布くことを宣言した。朝鮮人は当初、日本からの解放者としてアメリカ軍の進駐を喜んだ。しかし、ソウルではすでに独立国家建設を準備する組織が誕生していたことも手伝って、アメリカが軍政を宣言したことや、朝鮮総督府が残した行政機構・警察機構及びその人員を引き続き用いたことが大きな反発を生み、ソウルの政治情勢は乱戦模様を呈した。

米ソによる分割占領は固定化され、1948年になると、38度線以南ではアメリカによる軍政が終了し、8月15日に大韓民国の建国が宣言され、同年9月9日、38度線以北において朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言された。これにより、今日まで続く朝鮮の分断国家としての歴史が始まることとなった,ジプシエール