消滅した名城~尼崎城~(2)築城の背景 | ウルブリヒトのメモ帳

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尼崎城の古写真(明治初年)本丸伏見櫓
 
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始めとして今回は、尼崎城がどんな時代背景で出来たのかを簡単に追ってみたい。


近江の膳所(大津市膳所が崎城)藩主であった戸田氏鉄(うじかね)は、
将軍徳川秀忠の命を受け、元和3年(1617)、五万石の藩主として尼崎に入った。
 
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戸田氏鉄は、家康の近習を勤めるなど徳川の信任篤く、
大坂の陣で、二度も膳所城を守備した。
このため尼崎には、二万石を加増されての封入であった。
 
尼崎は、西国支配の拠点である大坂城の西の守りとして
枢要な地で、幕府は譜代大名であるこの戸田氏鉄
に新たな築城を命じたのだ。
 
実は氏鉄は、膳所城、尼崎城、大坂城修築や大垣城と、
実に築城に長けた殿様なのだ。
 
↑氏鉄の肖像~若い頃か?


元和3年、氏鉄は尼崎入りすると早々に着工する。
築城にあたっては、幕府も新城奉行を四名も派遣し、築城に強い意気込み見せていた。
 
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と言うのは、
この時期の大坂城は、まだ夏の陣(1615)後の影響で荒廃したままの状態であったようだ。
大坂は、町の復興と治水が優先され、無防備と言ってよい状態であった。
 
しかし、西国の大部分は、依然、有力外様大名で占められており、
中には、豊臣の滅亡後であっても徳川の世を快く思わない大名もまだまだ多かった。
これらに対する徳川方の西の防備は、姫路城がある程度で極めて乏しい状態であった。
 
このような状況から、尼崎築城とほぼ同時期に、明石城も築城が開始されている。
明石城も、尼崎と同様、秀忠の命を受けた譜代大名による築城である。
 
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大坂城の再建が元和6年(1620)から開始されるので、
この時期、幕府の大阪以西に対する防備を急速に
進めていたことが分かる。
 
これらの全てが完成することで、大坂城を拠点に西へ、
尼崎、明石、姫路と三段構えの防御体制となるのであった。
 
尼崎城は、この様な情勢下での築城であったのだ。
 
↑徳川大坂城の古写真
 
姫路城と明石城
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