人は困難を乗り越えれば美しく輝くことができる⑶ | 書道家 右近桜月 official blog 『至誠』

書道家 右近桜月 official blog 『至誠』

福井県出身
若手書道家
右近桜月〔うこん おうげつ〕と申します

4歳から書の道を歩み
22歳で師範より上の最高段位
同人を獲得

『至誠』極めて誠実なこと・真心

〜至誠にして動かざる者は
未だこれ有らざる成り〜吉田松陰先生より


こんにちは
右近月です❀.(*´◡`*)❀.
早いもので11月になりましたね

10月は一ヶ月間
ビジネスモデルを作ることに
専念した毎日でした

日々 書くことばかりなので
PCに触れる機会は
正直 私は一般の方より少ないと思う

MacのデスクトップのPCはあるものの
ほぼほぼインテリアと
化しておりました…

そのPCと10月は 
ひたすら にらめっこする毎日でした
( 私はセルの結合すらできないのだ…真顔

でも苦手なものと向き合える
いい機会で
知らないことも知れて結果
オーライですおねがい



さて、 引き続き
私の過去の自分史を綴ろうと思います
〜*〜・〜*〜・〜*〜



病院から退院した私は
学校生活に戻った

さすがに病弱部に進む子は少なく
高等部の(病弱部)の私の学年の生徒は
片手でおさまる人数でした

みんな それぞれ抱えているものは
ありましたが
どんどん 打ち解けていきました

でも教室から一歩 外にでると
養護学校(現 特別支援学校)なので
障がいを持った子
自閉症の子
肢体不自由の子
様々な個性を持った子たちがいます

最初は どうやって接したら良いか
全然わからなくて
戸惑ってばかりでした

しかし みんな心が洗われるくらい
純粋で純真で
真っ直ぐな子ばかり

そのことに気がついたとき
どう接したらいいか 
そんなことを考えていた
私はなんて陳腐なんだと
情けなくなりました

障がいと捉えるのではなく
その子独自の個性と
捉えられるようになれたんです

集会や文化祭があると
幼稚部から小学部、中学部まで
みんな 集います

私の3年間の高校生活は
障がいを持った子たちと
常に接し 色んなことを
考えさせられたり
感じることの 連続でした

なかには心が痛むようなこともありました

養護学校時代 私は 障がいを持った子たちの
世界に居て
いわゆる健常者の
世界にはいませんでした


でも毎週土曜日だけ
私は健常者の世界に身をおいていたのです
それが書道教室

私の師のお弟子さんは
30代から70代まで
とても幅が広く
3名普通高校に通う高校生はいましたが
私は 特異的な存在でした

他の先生方は皆さん書道塾をされていて
添削といって書を師に見てもらい 
すぐ帰られるのですが
私は 教室がある
お昼の14時〜20時まで
6時間 毎週その場にいて学びました

とにかく上手くなりたくて
師の全てを吸収したいと
書に のめりこんでいました

その時
私にとって
書とは生きること
そのものだったのです

師は凄く厳しくて
熱心に指導し続けて下さいました

時には あまりにも厳しい注意を受け
上手く書けない自分が悔しく
泣くこともありました

白い半切に 書いた字が
涙で滲むこともあった

それでも とにかく上手くなりたい気持ちと
書くことが 大好きな気持ちの方が
ずっとずっと強かった

他の先生方がいらっしゃる前で
私の書を師にみてもらっている際
ある日 こんなことを言われました


「 今までで 一番 上手く書けている 」

はぁ、やっと褒められた
と思ったその時です



この子
養護学校行ってるんやで

言われてしまいました
この言葉が後付けされたのです


その後も
それはずっと変わりませんでした

周りに人が沢山いるなかで
個人のカミングアウトできないような
重要なことを
第三者にさらっと言われてしまうのです

その言葉はニュアンス的に
「 養護学校に通っているような子でも
これくらい字は書ける 」

こうでした

私が目の当たりにしたのは
いわゆる差別でした

あぁ…こういうのを差別っていうんだと
悟った瞬間でした

しかし
「そのことは言わないで下さい」
と伝えたことは
今まで 一度たりともありません


なぜならば
事実だから
だって事実やもん

そしてもう一つ理由があった

それは そのことを言わないでほしい
ということで
自分の弱い心に負ける気がしたからです

正直悔しくて仕方なかったけれど

その感情に支配されずに

感情を上手く利用しようと考えました


その悔しさをバネに踏ん張った
いつか そんな後付けがなく
「 最高に上手く書けている 」と
言われる日がくると信じていたのです

だから 私は偏見や差別に
耐えることができたし
とてつもなく苦しかったけど
それが あったから
余計に誰よりも
私は上手くなってやる と
強く想えることができました

学校から一歩外にでると
私は見た目 障がいはないし
いわゆる ふつうにみえる

それで
当時されたら嫌な質問が
1つだけあったんです
それを言われたらドキっとする質問

「 どこの高校いってるの? 」
これです

私は隠すことなく正直に
「 中学の時に病気になって
それで養護学校に通ってます」
と当たり前に答えた

そうすると
必ずみんな
まず 表情が一瞬で変わるんですよね
凍りつく感じ。
そして聞いたことを
申し訳なさそうにして下さるです

それだけならいいのですが
ある日 こんなことを言われました



「 可哀想… 」

その時に思ったのは

「 え??私って可哀想な子として
みられてるの?なんで?
全然 可哀想なんかじゃないのに 」


可哀想って…なんやそれ…

私は いつしか 別に悪いことをしている
わけではないのに
なんだか悪いことをしているみたいに
思えてきました

養護学校に通っている私は
悪 なのだと
思うように
なってしまっていた

例えば 他にこんなことがあります
母と一緒にスーパーに
行った際

私は知っている人や
地元の子がいないか
そればかり気にして
周りばかりキョロキョロ見ていました

周囲を見ていて
知り合いをみかけると
私はこんな行動をとった

咄嗟に隠れたのです

そんな行動をとった
自分に私はびっくりしました

一言でいえば 
「 区別 」とか綺麗に言われている
この社会で
いまだに存在する
差別や偏見

生きにくかったです

でも入院をしていた頃から
ずっと思っていたのは
両親に申し訳ないという気持ちだった

私はどれだけの心配をかけて
苦労をかけて
迷惑をかけて
そして 両親が望んでいたような
私になれなかったことに…

私が聞かれた分だけ
両親は
「 娘さんどこの高校にいってるの? 」って
聞かれたと思う

母はお寺の坊守で専業主婦だけれど
父親は公務員で
寺院と兼業をしていたから
その質問をされる機会は
特に多かったと思うのです

人の何倍も何十倍も何百倍も
私は親孝行を将来したいと思った

でも苦しいこと
悲しいことばかりではありませんでした

あんな後付けはされたけど
師は私を なんとか伸ばしたいと
思ってくれていました

ある日 厳しい指導をされた時
ショックすぎて泣いてしまったのです

すると師は こんなことを言ってくれました  

「 私は右近さんが好きやから
ここまで注意するんや 」

その言葉は凄く愛情に溢れていて
もしかしたら私の書への
取り組み方をみて
あえて 私が頑張るように
あんな後付けをしたのではないかと
今では 想っている
( ものすごいポジティブな考えかもしれないけど


私は師の愛情に救われました
師に出逢っていなければ
確実に今の私は存在しません

私にとって師との出逢いは
人生最大の最高の転機でした

6時間も教室に居座って
書いていると
添削で先生方がお越しになる
皆さんと会います

先生方は私の背景を知って下さってから
なにも言わず普通に接して下さいました

今年の1月に会派は退会し
今はフリーランスの書道家として
生きていますが
先生方には感謝しかありません…。

その先生方も
さすがに6時間も教室があると
パタリと 途絶える瞬間があったのです

そうした時
師に書を見せると
いろんな話を聞かせて下さいました

歴史のこと
生きるうえで必要なこと
哲学
師が書道をどれだけ愛しているか
今まで学んできたこと

学校では教えてもらえないことを
沢山 私に話してくれました

私はその時間が大好きで
師との2人の時間を 尊く 
かけがえのないものだと感じていました

そして毎週書いていた書道ノート。
書について教えて頂いたこと
注意を受けた点
そして 他の先生方におっしゃっていること
その日の感想まで
全てを綴っていました

忘れたくないから
なにより ぜんぶ覚えていたいから


師は私の人生の恩人で
今も変わらず
私のことを応援して下さっています

「 私は東京に居たかったけど
福井にいないといけなかったから
都会にいたらしたかったことを
私の代わりにしてほしいんだ
右近さんは若い
テレビやメディアにもでてほしい
そして いつか
16歳から書き綴りつづけた
あのノートを出版してほしい。

右近さんにとって
書道をすることは
神か仏が与えてくれた使命だと思うから
どうか生涯続けてほしい 」と
おっしゃって下さいました

こんなに有難い御言葉を頂戴し
会派を退会した今も尚、
私の背中を押し続けて下さるのです
 
「 右近さんには これから
もっともっと
素敵なことが待っているから 」と


私は師に恵まれ
そして養護学校の先生に恵まれ
なんて幸せ者なんだろうと
つくづく想います

担任の先生、副担任の先生
学校にいた全ての先生が
いつも気にかけて下さいました

1年の時 担任をして下さった
美術の吉田先生
吉田先生は
私の一番身体が悪いときを どん底を
知って下さっています

卒業して10年経った今も
福井に帰ったときは
美術展をみて
それから 甘党同士 お茶をする仲に
なりました

それも10年前は
こんな風になれることを
信じられなかった

2.3年生の時 担任をして下さった
美術の田邉先生は
私の悩み 葛藤  不安
全てを大きな懐で
受け入れて下さいました

こんなにも親身になって下さる先生は
後にも先にも 田邉先生だけです

先生と過ごした2年間があるから
今 私は笑顔で心身ともに
元気で生きることができています

あの時はまだ小学生だった
田邉先生の娘さんは
関西の学校に進学され
今はその娘さんと
仲良くさせて頂いています

そんなことも
あの苦しみに 打ちひしがれていた時は
想像すら出来ませんでした

そして私が恩返しをしたいのは
両親だけではありません

私を支えてくれた
養護学校の先生方 皆さんです
書道家としての私の活動を通して
ご恩返しがしたい

先月 発売された
私が題字を創作しデザインした
2018福井国体限定 「叔羅川」が
新聞に こんなに大きく
取り上げて頂いた時
{8C0AFD3F-941C-408E-981C-7575A139BBDC}
先生方は喜んで下さり
副担任の先生は
こんなことを言って下さいました

『 知り合いのセンセー達にも早速
宣伝しちゃいましたぁ!
なんか宣伝してるときうれしくなったわぁ!
そういう気持ちが味わえるって
すごーく感動ものだし
十分 恩返し通りこしてるから
心配しなくても大丈夫だよ ありがとうね 』

それでもまだ
私の中での恩返しは全然
足りていないんです
これからの活動で
もっと 喜んでもらいたいと想っています

自分のためだけじゃなく
誰かが喜んで下さることを考えたら
凄くパワーが湧いてくる

私は 普通高校に行っている子達が
出来るであろう経験はできなかった 

でも 私にしか出来ない経験をさせて頂いた  
3年間でした

健康な時 思い描いていたような

青春を私は体験できなかったけれど


強がりでもなんでもなく

順風満帆に進んだ私より

今 ここに存在する私は

心が豊かで 価値があると想っています


苦しんだ分だけ

悲しんだ分だけ 

悔しい思いをした分だけ

挫折した分だけ

失敗した分だけ

誰かに優しく

そしてその人の心の痛みを

組んであげることができる

そっと寄り添うことが

できると想うのです


私の26年間 生きてきた人生で

自慢できることがあるとするなら

挫折した回数

苦しみ悩みもがき続けた日々


それが なかなか人にはみえない

領域を私に

見させてくれたと想っています



今 マネージメント契約をしている

Do companyの春貴社長に

私の過去を話した際

思いもよらぬ言葉が返ってきました




ふつうでは

出来ない経験をしているから

羨ましい


こんなこと人生で初めて言われました


あんなにも普通高校に通う

友達のことを羨ましがっていた私が

可哀想って言われていた私がですよ、

誰かに羨ましいって言ってもらえたんです


こんな10年後が訪れるとは

想像すらできなかった



私は幸せを感じる

沸点が物凄く低いんですよね

ちょっとしたことで

すごく喜ぶし 嬉しがる

そんなに?!って驚かれるくらい。


それは当たり前と思えるようなことを

当たり前だと思ってないから


「当たり前は当たり前ではない」

ということに

14歳という早い段階で気づけた私は

それ以降の

人生 ただただhappyでしかないんですよ



人生から逃げ出したくなるほどの

経験は

私を鍛えてくれていたのです


次の記事には

養護学校を卒業し

関西に進学することを決意したことを

綴りたいと思います


皆様

今日も一日お疲れ様でした

{8639A7DC-83DC-41B6-85DD-DC29CC360396}
{27124270-9014-4A29-B20B-A8579D0FA642}