【 細川ガラシャの信仰に学ぶ 】
阪神壮年の集い 2021.9.26 午後4時 - YouTube
● 髙山右近は、1585年 ( 天正13年 ) に、高槻から明石へと転封
( てんぽう ) となり、
当初、明石氏の居城であった 枝吉城に入りましたが、
右近の 明石転封には、
豊臣秀吉の 九州制圧の拠点となることと、
南蛮交易の窓口としての役割を期待されていましたので、
右近は、翌年の 1586年 ( 天正14年 ) に、
2km南の 海ベリに、船上城を築きました。
秀吉は、大坂湾防衛の一環として、水軍の拠点とするために、
右近に、大船2艘を与えています。
本丸跡 と 古城川 ( 手前 )
● 本丸の北側と 東側は、古城川 を 内堀の一部とし、
更に、その東側を流れる 乙樋川と、西側を流れる 高浜川が 外堀の役割を果たしていたようです。
本丸には、天守や 多聞塀があったと 記録されています。
( 「 小笠原忠真 一代覚書 乾 」 )
● 新領主となった 髙山右近は、当時33歳で、
キリシタン大名として、教会と司祭館を建て、宣教師が常駐して、
キリスト教を 積極的に広めていきました。
2000人以上の人たちが、洗礼を受け、キリシタンとなっていきました。
しかし、翌1587年 ( 天正15年 ) に、秀吉が 「 バテレン追放令 」 を出し、
信仰を捨てなかった右近は、領地没収のうえ、明石を追放されてしまいました。
明石 ・ 船上は、一時、豊臣氏の直轄領となりました。
● 江戸時代になって、
1615年 ( 元和元年 ) に出された 「 一国一城令 」 や、
1619年 ( 元和5年 ) に、現在の明石城が新築されましたので、
船上城は、廃城となりました。
一部、船上城の 巽櫓が、明石城に移築されていますので、
当時の船上城を偲ぶことが出来ます。
巽櫓
In Moments Like These | Fountainview Academy | Live Recording - YouTube
【 「 口伝え 」 による 祈りの継承 】 | 高山右近研究室のブログ (ameblo.jp)
お茶タイム 茨城いもの 「 紅はるか 」
久保田流 ミニ生け花
※ 【 今日の うた 】
全身で 聴く笹鳴で ありにけり 白根純子
異国の子 男雛女雛を 向き合はせ 長沼敏夫
満開の 桜を入れて 撮る写真 牧野美咲