【 信長公記 ・ 本能寺の変 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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● 「 信長公記 」

 “ のぶながこう ” に関する記録ですから、

  信長のことを “ しんちょうこう ” などと言うはずがないので、

 私 ( 久保田 Ucon 典彦 ) は、信長公に失礼のないように、

 「 のぶながこうき 」 と言っています。

 

 織田信長の旧臣 ・ 太田牛一が、慶長15年 ( 1610年 )、84歳の時に完成した 信長の一代記で、 全16巻。

 

 信長の幼少 ( 吉法師 ) の頃から、本能寺の変で 最期を迎えるまでのことを記しています。

 

● [ 巻十五 ] の最後は、「 本能寺の変 」 の記述になっています。

 

  ・ 明智日向 西国出陣の事

  ・ 信長公 御上洛の事

  ・ 明智日向守 逆心の事

  ・ 信長公 本能寺にて御腹めされ候事

 

 但し、関係者から聞き取りをして記録するにしても、全員が討ち死にしてしまいましたから、くわしい内容にはなっていません。

 

 

● 天正十年五月廿六日、惟任日向守 ( 明智光秀 )、中国へ出陣の為、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。

 次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。一宿参籠致し、

 惟任日向守 心持御座候や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度

三度まで籤を取りたる由、申し候。

 廿八日、西坊にて連歌興行。

 

 五月廿九日、信長公御上洛。

 御小姓衆二、三十人召し列せられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御いっそう次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、この度は、御伴これなし。

 

 さる程に、不慮の題目出来 ( しゅったい ) 候て、

 六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆臣を企て、明智左馬助 ・ 明智次右衛門 ・ 藤田伝五 ・ 斎藤内蔵助、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を

究め、

 

 亀山より中国へは 三草越えを仕り候を、爰 ( ここ ) を引き返し、東向きに馬の首を並べ、老いの山へ上り、京へ出づる道へ下り、桂川を打ち越し、漸く夜も明け方に罷りなり候。

 

 既に、信長公御座所、本能寺を取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。

 信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を 下々の者ども仕出 ( しいだ ) し

候と、おぼしめされ候のところ、一向 さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。

 

 「 是は謀叛か、如何なる者の企てぞ。」 と、御諚 ( ごじょう ) のところに、森蘭丸 申す様に、

 「 明智が者と見え申し候。」 と、言上候へば、

 「 是非に及ばず。」 と、上意候。

 

 信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも

時刻到来候て、御弓の弦 ( つる ) 切れ、其の後、御鎗 ( やり ) にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被 ( こうむ ) り、引き退き、

 

 是れまで 御そばに女どもつきそひて居り申し候を、

 「 女は くるしからず。急ぎ罷り出でよ。」 と 仰せられ、追い出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。

 

 御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、

 殿中奥深く入り給ひ、内よりも 御南戸 ( なんど ) の口を引き立て、

無情に御腹をめされたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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