【 真説 ・ 本能寺の変 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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● 天正10年 ( 1582年 ) 6月1日の夜、亀山城において、

 明智光秀は、忠臣の4名、明智左馬助秀満 ・ 明智次右衛門 ・ 藤田

伝五 ・ 斎藤内蔵助利三 ( としみつ ) を集めて、

 “ 信長を討ち、天下の主となる ” 決意を打ち明けました。

 

 信長は、5月29日に、20 ~ 30人の小姓衆を連れて、安土から

上洛し、宿所である 本能寺に入っていましたが、

 信長は この後、羽柴秀吉から要請を受けて、備中 ・ 高松城攻めの

最後の決着をつけるために、中国地方へ向かう予定でした。

 

 その与力と考えていたのが、

 明智光秀隊であり、大和の 筒井順慶の部隊でした。

 

 光秀が 本来、直接 中国地方へ向かうはずだったのを、

 急きょ 変更して、京に向かった! ━━ というのでは なさそうです。

 

 信長が、わずかな供廻りのみで 入京したのは、

 光秀や 順慶たちの軍勢の集結を待っていたのです。

 光秀らに、京都 あるいは 京都近郊での集結を指示していたと思われます。

 

 光秀隊が 京都に向かうことは、予定の行動でした。

 光秀が 家中の者に、 “ 信長公のもとでの閲兵のために 入京する ”

と触れたのは、偽装工作ではありませんでした。

 

 信長は、光秀や 順慶の部隊を 京都に集結させ、それを率いて西国へ向かおうとしていたと思われます。

 

● 明智隊は、1万3千人の 大部隊ですので、2隊に分けて 京都に

入りました。

 

 本隊は、山陰道を通って、 老ノ坂 ➡ 沓掛 ➡ 本能寺

 分隊の 明智次右衛門隊は、 唐櫃越 ➡ 四条街道 ➡ 本能寺

 

● 6月2日、本体の全軍が 桂川を渡り終わったところで、

 光秀は、士卒たちに、決意を披瀝し、

 “ 敵は 信長 ・ 信忠である ” ことを宣言し、

 草鞋 ( わらじ ) を 新しいものに履き替えること ・ 火縄に火をつけること などの、実戦態勢を取らせます。

 まさに、 「 敵は 本能寺にあり! 」 ━━ です。

 

 本能寺に到着した 明智軍は、周囲を包囲しましたが、

 考えもしないことでしたので、本能寺は、門が開かれていて、まったくの 無防備でした。

 

 信長の周辺にいた兵力は、せいぜい、200人ほどで、多勢に無勢、

瞬く間に 信長を追いつめました。

 

 信長の命令によって、御殿に 火がつけられ、

 信長は、激しく炎上する御殿と共に、最期を迎えました。

 

 ただし、信長の最期を見届けた者は、一人もいません。

 光秀は、信長の遺体を、隅々まで探させましたが、見つけることは

出来ませんでした。

 

● テレビや 物語などでは、興味深く、いろいろに描かれていますが、真相は、以上のようなことかもしれませんョ!

 

 

 

 

 

 

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