【 「 愛宕百韻 」 考 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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● 「 愛宕百韻 」 を、特別な先入観を いっさい持たないで 読んでみますと、

 

 この連歌会は、毛利攻めのために 中国地方に出陣する ( 6/1 ) 、

一週間前 ( 5/24 ) に、 “ 戦勝祈願 ” のために催され、

 その 百韻一巻 の連歌を、愛宕神社に奉納することが 目的でした。

 

 発句を受け持った 明智光秀の責任は、

 このあと 100句続いていくためのものですから、独善的なもので

あってはなりません。

 

 明智光秀が詠みます 発句には、今の時季 ( 当季 ) が詠まれることになっています。

 あわせて、今回は “ 戦勝祈願 ” の 発句です。

 

 季語としては、今の時である 「 五月 」 を選びました。

 戦勝祈願としては、「 天が下しる 」 を選びました。

 全体の内容としては、

 時は 五月。天下が治められていくためには、今回の戦での勝利が

かかっている!

 

     ときは今 天が下しる 五月哉

 

 戦勝祈願の 発句として、見事なものになっています。

 

● 出陣一週間前の、この時期の光秀に、

 たとえ、信長に対する 不信や 謀反の思いがあったとしても、

 まだまだ、心の中で 揺れ動いている状態で、

 自分の中で、迷いながら ・ 自問自答を繰り返しながら、誰にも語ったり ・ 相談したりは していなかったでしょうし、

 

 ましてや、そのような 重大なことを、

 いろんな武将たちと交流のある 連歌師や 神職たちの集まりである

連歌会の席で、表出するような、軽々しいものではなかったはずです。

 

 そのような 重大なことを、直接でなかったとしても、発句に含めて

表現したと考えるのは、

 あまりにも、光秀が軽薄すぎて、思慮深く ・ 実直な光秀像とは、相いれません。

 

 まして、信長に代わって、他の誰か ( 天皇や将軍など ) ではなく、

 光秀自身が 天下を治めるのだ、などと表明するのは、説得力があり

ません。

 

● それに加えて、 [ 連歌 ] の性格から言っても、説明出来ません。

 

 戦国の世にあって、茶の湯や 能や 連歌が 大事なものとして、大切にされたのは、平和な芸能 であったからです。

 

 [ 連歌 ] について言っても

 時代を なまなましく、その素材や 表現の上で 言い表していく、といった 文学形態では ありません。

 現実を直視して、表現していっては いないのです。

 

 そこで 繰り広げられているのは、まさしく、古典の世界であって、

 和歌や 物語を 下敷きにしながら、表現していく スタイルになっています。

 

 【 愛宕百韻 】 の 全100句を見てみましても、

 「 万葉集 」 や 「 古今集 」 や 「 源氏物語 」 ・・・・・ などの世界に

重ねながら、

 季節を詠い、 花 ・ 月 ・ 鳥 ・ 雪 ・ 恋 ・ 旅 ・・・・ を詠い継ぎ、

 

 国々も、のどかに治まる 太平の世であることよ!

      国々は猶 のどかなるころ

 ━━ と、詠いおさめていっています。

 

 不穏な空気や 表現は、いっさい ありません。

 

 時は今、天下が治まる世で あれかし。

 国々が、のどかなる世であれかし。

 そのために働こうとしている ・ 出陣していこうとしている、

 “ 戦勝祈願 ” のための 百韻連歌。

 

 ━━ ということで、無理がないように 思われます。

 

● 明智光秀 失脚後、

 “ 本能寺の変を 事前に承知していた ” ということで、責められた

連歌師 ・ 里村紹巴 が、

 “ もともとの発句は、「 天が下なる 」 であったのを、

  光秀が あとで、「 天が下しる 」 に 書き変えた ”

と 申し開きをしたということが、

 [ 三暁庵随筆 ]  ほかの書に、さまざまな形で 記されているようです。

 

 

 

 

 

 

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