( 濱田高槻市長 ・ 橋本市議会議長と共に )
※ 「 髙山右近フェスタ 」 が、いよいよ 4日後に迫ってきましたが、
その日を目前にして
2月15日に 亡くなられた 宇津木秀甫さんが 「 髙山右近フェスタ 」 に対する深い思い入れの文章を残してくださっています。
( 当日配布の パンフレットに掲載します。)
● 髙山右近をしのぶ 高槻市民のアクションとして
今回の 髙山右近の列福を機会にして、高槻市民として、右近を
これまでより深く理解し、誇らかに、顕彰する市民運動をしよう
━━ と考えて、 「 髙山右近フェスタ 」 を企画しました。
市自治体にも 教会にも 示唆を受けていない、全く市民的な発案
でした。
さすが 高槻市民だ、と誇れる準備活動をしてきています。
主婦による 「 昔ばなし語りべ集団 」 ですが、2年半をかけて
全十六章の 「 髙山右近物語 」 の台本をまとめあげ、それを順次3回の発表会で語ることによって、全回 満席で、感動的な 右近理解の場をつくったのです。
そのような成果の上に、更に広範な市民団体と 市民個人の資金
協力に支えられて、市民のつどい 「 髙山右近フェスタ 」 を実施する
ことが出来ました。
市民は、お祭り騒ぎではなく、しずかに右近を偲んでいると思います。
今回、市民的に深められた右近像は、
まず、謙虚なキリシタンとして、
兵力を増やし戦争によって勢力を大きくするのではない、
当時の常識を超えた高槻城主であったこと。
また、住民が平等に、信仰で生きることを願って 近代の扉を押し開いた先駆者であること ━━ でした。
豊臣秀吉の 「 バテレン追放令 」 によって 領地を取り上げられ、
大名の地位をはく奪されても、キリスト教信仰者として、いよいよ明朗になり、
茶の湯に親しみ、茶室では神を思う黙想を重ねつつ、教会と信仰者の
共同体の支柱となり、
また、一般国民に対しては、南蛮文化を盛んにするように、重要な
提案をしています。
更に、父 飛騨守が老いて死去するまで、信仰の模範として 父に仕え、当時めずらしかった 一夫一妻制を守り、
徳川家康の 「 キリシタン禁教令 」 により拘束されると、家族と共に長崎まで殉教を願いながら 拉致されて行き、
遂に 一族は、国外のマニラに流され、マニラ市民の手厚い尊敬を
受けながらも、右近は熱病に侵され、
もっとも 冷静に、宇宙創造者への信仰を 口に唱えながら 息を引き取ったことは、
あらためて、市民が 深い感銘を受けたことでした。
髙山右近のことを、この国で、一番深く ・ 正確に深め続けるのは、
高槻市民である
━━ と、断言しても 間違っていない、と確信します。