Q. 「日本二十六聖人殉教 」 の時、フロイス神父は 長崎にいて、くわしい記録を残されているようですが、どのようなものだったのですか。
A. 今日は、2017年の 2月5日ですネ!
二十六人の殉教は、1597年2月5日。
フロイス神父が 「 殉教記録 」 を 完了させたのが、
ひと月後の 3月17日。
その2か月と23日後には、長崎の コレジョ ( 学院 ) で 召天して
いかれました。
日本宣教に関する、数々の 貴重な記録を残してくれた フロイス神父の最後の報告書となりました。
スペイン語と ポルトガル語のものが準備され、
スペイン語のものは、 マニラ ➡ ローマへ。
ポルトガル語のものは、 マカオ ➡ ローマへ。
但し、マカオで ヴァリニャーノが、内容を整理し、他の史料も加えた
ものに修正し、それが ローマに送られました。
ヴァリニャーノは、
“ フロイスが書き送ってきた記録は、それを燃やしてしまうように ”
と 要請しています。
幸いなことに、現在、フロイスの 「 殉教記 」 の、スペイン語の原文が、ローマの 「 イエズス会文書館 」 に保存されていて、よかった
です。
● 道の反対側の、海にあたる方に、町が見える丘があって、その上は、二十六人のために十字架を立てるに充分な平地があった。
普通、このような時の十字架は、粗末な 曲がった丸太で作られて
いるが、この二十六人の十字架は、真っすぐな四角の木で作られ、
その形は、四本の木で出来ていて、一つは 十字架本体。
他は 両腕をとめる横木と、下方の足に当たる所に、足をつける横木があり、
十字架の中央に、前方に 短い木が突き出ていて、そこに 馬乗りになって体を支えていた。
二十六人は、釘を用いず、鉄輪と 他の3個所を 縄で手足を縛り付け、腰や両腕も 縄で結わえ付け、全身をしっかり固定した。
体を十字架に結わえ付けた後、十字架を起こし、穴に差し込んで、
動かないように石で固定した。
穴に十字架を差し込む時、体がひどく動き、非常な苦痛となった。
● フライ ・ マルティノ は、声高らかに
「 主である神が、ほめ讃えられますように 」と唱え始めた。
十二歳の 同宿 ルドビコ は、朗々として、
「 自分の十字架は、どこにあるのか 」 と尋ねた。
子どもの背丈に合わせた十字架を示されると、そこに走り寄った。
コミサリオ神父は、ずっと動かず 天を仰いでいた。
イルマン ・ パウロ三木 は、出来うる限り大声で、十字架上から説教した。
イルマン ・ ジョアン は、聴いていた人々を驚かすほど喜び、元気に溢れて、十字架上から、近くにいる人々を励ましていた。
フライ ・ フランシスコ ・ ブランコ神父は、神に感謝と 賛美の言葉を
いろいろと言って、大きな喜びを表していた。
フライ ・ ゴンサロ は、大声で、「 天にまします 」 と、“ 主の祈り ” を唱えた。
アントニオ は、喜びと 穏やかな顔をして、信仰溢れて 天を仰ぎ、
「 イエス、マリア 」 と叫び、「 子ども等よ、神をほめ賛えよ 」 という
詩篇を唱えた。
その他、ある者は、信心を起こさせる言葉で、その場にいた信者に
別れを告げたり、励ましたりしていた。
● 四人の執行人が、槍を刺すため、鞘を払い、駆けながら、殉教者たちを刺していった。
各殉教者に二人の執行人。
一人は 左側から、他は 右側から槍を刺し、
この二本の槍で、殆ど全員が 息絶えたが、
刺される その時、全員が、大きな努力と忍耐をもって、苦痛で体を動かしたり、うめき声を出したり しなかった。
傷口から 血がほとばしり、そこの土を潤し始めた。
このように、神のしもべ達は、創造主に霊魂をささげ、
栄光ある勝利を得た。