( 現在の 「 妙覚寺 」 )
Q. 宣教師ヴィレラが、将軍 ・ 足利義輝と 会見した場所は どこですか?
A. 京都市 二条衣棚にあった 「 妙覚寺 」 です。
当時 ( 1560年 )、宣教師ヴィレラは、下京の 四条坊門通の 姥柳町の住居に、やっと落ち着くことが出来、祭壇と小さな聖堂を設けて、
宣教の働きを進めていました。
室町幕府 第13代将軍 ・ 足利義輝は、
1553年、三好長慶との権力抗争に敗れ、近江国 朽木谷に逃れて
いましたが、和議を結び、1558年に京都に戻り、「 妙覚寺 」 に住み、政治を司っていました。
● 京の都で、キリスト教の宣教を進めていきたいと思っていた
ヴィレラですが、
比叡山の僧侶たちや 町衆の 妨害や反対 ・ 侮辱などが 激しく、
是非、公方様 ( 足利義輝 ) と会見し、直々の 「 允許状 」
( いんきょ ・ 許可 ) を与えられたいと、願っていました。
感謝なことに、都の 一人の高僧 ・ 永源庵 という人が、仲介の労を取ってくれました。
会見の当日は、ひどい雨降りになりました。
通訳は、ロレンソ修道士がつとめました。
ヴィレラ達は、日々の生計を立てていくのがやっとであるくらい
貧しかったのですが、
日々 祈りのためなどに重宝して使っていた 貴重な 「 砂時計 」 を
公方様に贈呈し、喜んでもらいました。
公方も、ヴィレラを、高位聖職者として、
非常に手厚いもてなしをもって 礼遇しました。
● 後日、ヴィレラ司祭が願い出た “ 三カ条からなる制札 ”
( 允許状 ) が、許可され、与えられています。
願い出た内容は、
① 司祭の住居を、兵士たちが宿舎として徴発してはならないこと
※ 寺院は、通常、兵士や使者、および外から都の政庁に来る
殿たちのために、宿舎とか屯所として利用される習わしがあり、
そのことを免れ得なかったのです。
② 公方様が、司祭には、賦課とか見張番、その他の義務を免除する
こと
※ それらのことは、仏僧らも含め、全市民に義務付けられている
ことでした。
③ 何びとも、伴天連を非難したり 虐待してはならず、その違反者は、
しかるべく罰せられるべきこと
ヴィレラ司祭は、公方様の 「 允許状 」 の写しを 板に書き記し、
教会の戸口に掲げましたので、
町の人々が 伴天連のことを、これまでとは まったく違った目で
見るようになり、公然と 侮辱することも 止むようになっていきました。