髙山右近の生涯において、身を引き裂かれるような 大きな苦難の時が何度もありましたが、その中でも、迷いに迷い・悩みに悩み・祈りに祈ったのは、「荒木村重の謀反」の時だったことでしょう。
右近は、切実な、主なるデウスへの問いかけ・叫び・祈りの中で、主なるデウスからの答えとして、最善の道を示され、そのように歩んでいったのでした。
この時の髙山右近の歩みは、まさに、旧約聖書 ・「詩篇107篇」 のみことば通りのものでしたよ。
詩篇107篇は、 「神の いつくしみ の詩篇」 と言われています。
1節に、「主に感謝せよ。主は まことに いつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」 とあります。
世界中で愛唱されている賛美歌 「いつくしみ深き」。
でも、“ いつくしみ深い ” とは、どういう意味なのでしょうか?
旧約聖書の原語である ヘブル語の 「トーブ」。 “その時々の状況に対応して、常に、よりよいものを選んで 与えてくださる” ━━ という意味なのです。
107篇には、4回、 「この苦しみの時に、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」 (6・13・19・28節) と記されています。
苦しみの時 → 主に向かって叫ぶ(祈る)
→ 主は 苦悩から救い出す → 主に感謝!
・ どのような「苦しみの時」 なのでしょうか。
Ⅰ⑥ 「苦しみの時」 ━━ さまよい、行く道を見つけ出せず、
たましいは衰え果てた。
Ⅱ⑬ 「苦しみの時」 ━━ よろけ、だれも助けてくれなかった。
Ⅲ⑲ 「苦しみの時」 ━━ 死を覚悟するほどまで 追いつめられて
いた。
Ⅳ28 「苦しみの時」 ━━ よろめき、ふらついて、分別が乱れた。
まさに、髙山右近の苦しみは、これら4つの「苦しみの時」を合わせたほどの、大きな・厳しいものでした。
・ この「苦しみの時」に、主に向かって叫びました。右近は、高槻城の 祈りの部屋にとじこもり、一心に、神・デウスに、主イエス・キリストに向かって 叫びました。祈りました。主なるデウスから答えをいただくまで、祈りつづけました。求めつづけました。
・ 結果、主は 苦悩から救い出されました。連れ出してくださいました。
Ⅰ に対して ━━ まっすぐな道に導かれました。
Ⅱ に対して ━━ やみと死の陰から連れ出し、かせを打ち砕かれ
ました。粉々に砕かれました。
Ⅲ に対して ━━ みことばを送って いやし、滅びから助け出され
ました。
Ⅳ に対して ━━ あらしを静め、波をないで、望む港に導かれ
ました。
“いつくしみ深い” 神は、それぞれの状況に対応して、よりよいものを選んで、与えてくださったのです。
髙山右近は、このような 主デウスからの取り扱い・助けをいただいて、一つの道を示され、導かれて、平安の内に 高槻城を出て、「主にすべてをささげて歩む」(献身) という確信をもって、織田信長の前に出ていったのでした。
・ それぞれの 苦しみ → 叫び(祈り) → 救い出し ・・・・・ に対して、
「人の子らへの奇(くす)しいわざを、主に感謝せよ。」 と 勧めています。(8・15・21・31節)
髙山右近も、言葉に言い尽せないほどの感謝を、主なるデウスに、主イエス・キリストに ささげたことでしょう。