【 キリシタンの殉教者数 】 | 高山右近研究室のブログ

高山右近研究室のブログ

・右近についての、Q&A 
・右近研究こぼれ話 など

監修 右近研究家・久保田典彦
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/

Q. キリシタンの殉教者数について、新井白石の言葉として、「およそ2、30万人」だったと、よく言われますが、どこに記されているのですか。


A. 新井白石の著作 「西洋紀聞」 の関係史料と言うべき、 「羅馬人処置献議」 の中に記されています。


「羅馬人」(ローマ人)というのは、1708年(宝永5)、屋久島に潜入・上陸した、ローマ法王庁の使節 ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ のことです。


 シドッチを江戸に連行し、江戸幕府 6代将軍・徳川家宣の特命によって、シドッチの取り調べを、新井白石が担当しました。

 その結果、シドッチの処置について献議したものが 「羅馬人処置献議」 です。


 白石は、上策として 「かれを本国へ返さるる事」 を上申しますが、結果は、中策として示した 「かれを囚となして たすけ置かるる事」 が採用され、小日向にあった切支丹屋敷で囚禁されることになります。

 しかし、獄吏夫婦(長助・はる) に洗礼を授けたために、地下牢に移され、そこで亡くなっています。


 この 「羅馬人処置献議」 の中に、次のような一節があるのです。


「 むかし 神祖(家康)の御時、慶長十九年より彼の宗門を制せらるるといへども、法禁なほ ゆるやか也。


 その後、彼の国人来りて 其の法をひろむる事は 我国を奪う謀(はかりごと)也と聞えて、其の法 もと正しからずといへども、我国を謀るといふは実なるべからず。しかれ共、島原の変 出来たれば 申しひらく事難しかるべし。


 猷庿(ゆうびょう・秀忠)の御時、其の禁 もつとも厳になりて、我国の人、其の法を転(ころ)ぶものをばたすけおかれ、転ばざるものをば誅せらる。

 彼の国より来れる師といへども、転びしをばたすけおかれ、転ばざるものをば凡(およそ) 百余人 まで誅せられたり。

 彼の国の師 たすけおかれしもの、某(それがし)が聞き及びし所 わづかに五人歟(か)。


 しかれども彼の国の人、来る事猶やまず。我が国人、彼の法をうくるもの猶やまざれば、

猷庿 御末年に及びて、かれらには杖をつかせよ と仰せられたり。杖をつかせよ とは、ころぶに及ばず 誅せよ との御事也。其の輩(やから)が転ぶ事をゆるさず、皆ことごとくに誅せらる。

 前後 凡 二三十万人。」