A. 都の四条坊門通りにあった南蛮寺は、「伴天連追放令」が出された後、すぐに破壊されたわけではありません。
天正十五年(1587)六月十九日付で、5箇条からなる「定」(さだめ・伴天連追放令)が、九州・博多の箱崎の地で発令されました。
「定」の一つ目は、“ 日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだ以て、しかるべからず候事”
この「定」が出された後、すぐに、修道院や教会が破壊されていったと思われていますが、実際はそうではありません。没収し、差し押さえましたが、警備の番人や掃除人を置いて管理させただけで、破壊はしていません。
● 1588.2.20(天正16.1.24)付、有馬発、ルイス・フロイスより、ローマのイエズス会総長に送った書簡
”彼(秀吉)が、我らに対して命令を発した日より、すでに七カ月を経たにもかかわらず、
・・・・大坂城や堺及び都において、我らの有したカザ(修道院)及び聖堂を、ことごとく没収したが、今日まで何人(なにびと)にもこれを与えず、また、これを破壊していない。
・・・・ジュスト(右近)の家[大坂教会の近くにあった。]もまた、何人にも与えていない。”
● フロイス・著「日本史」(中公文庫 / 第3巻・63章)
”関白(秀吉)が、追放令以後、十カ月もの間、都や大坂や堺の私たちの修道院や教会を、ただそれらを警戒する番人や掃除人を置くだけで、無疵のまま放置していることは、今まで私たちが大いに訝(いぶか)ったことでありました。”
”ですが、この疑惑に対する回答はすでに明瞭なのです。すなわち彼(秀吉)は、都の私たちの教会や修道院を解体して、自分の淀城に運ぶことを命じたからです。”
南蛮寺などの中にあった聖画や聖具などは、徹底して破壊したと思いますが、建物の方は ━建物資材は貴重です。 ━ 解体して、建築が始まっていた淀城のために再利用されていった、というわけです。
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