すっかりご無沙汰してしまいました。

 

実は5月に初孫が産まれ、なんとなくバタバタしておりました。

そして7月に18年以上一緒にいた愛犬が虹の橋を渡ってしまいました。

 

歩けなくなって介護が結局2年くらいだったのかな、、、

最後は夜中も1時間おきになり、家族で交代でお世話をしていました。

 

最後は病院の受付で、次が順番というときに私の腕の中で息を引き取りました。

ずっと見ていただいていた先生に心電図も見せていただき、最後の処置もしていただき、最良の最期だったとは思うのですが、しばらくは涙涙の日々を過ごしていました。

 

私自身は、今は車の運転も再開し、孫のお世話もできるほど元気になっております。

 

入院中に13キロ減った体重はそのままキープしております!

 

ただ、やはり体力は落ちたままですぐくたびれてしまうのと、気力も続かないというか、、、歳のせいなのか、病気のせいなのかがわかりません。世の中の動きも不穏で、不安になってしまうのもあるかもしれませんね。

 

このまま自然消滅してしまうかとも思ったのですが、転院後のことをやはり書き残しておいた方がいいかな、、と思い直しました。

 

少し読み返してみても、こんなことあったんだ、、、と既に忘れかけていることもあったりしたので、自分の記録のためにまた少しずつ書いてみます。

 

また新たに聴神経腫瘍が見つかったり、水頭症で戦っておられる方もいらっしゃいますよね。

 

良性の脳腫瘍ではありますが、やはり不安も大きいこともあるかと思います。

 

私の場合はあまり後に続きたくない事例ではあると思いますが、兄に来週は葬式か、、、と覚悟させた状態から、一人で車の運転もできるし、孫を預かって面倒が見られるようになるまで回復した、ある意味希望が持てる事例かとも思います。

 

何かのお役に立てると嬉しいです。

 

とりあえず今日は再開のご挨拶まで。





実は私今回の入院中に血液検査で引っかかりまして、最初の病院では血液が固まりにくいため、手術の時には輸血をしながらの手術になるかもしれないと。


確かに傷の治りも悪く、抜糸していただいた後にまたじわじわ出血する、、、といった感じでした。


で転院先で詳しく調べていただいたところ、血が止まりにくいのも問題なんだけれども、血栓ができやすい体質だということがわかりました。


抗リン脂質抗体症候群というものらしいです。


1番の問題は、流産をしやすいというもの。


それで思い出したのは、私はアメリカで子供達を出産したのですが、妊娠する前に夫の会社の健康診断でやはりひっかかり、再検査を繰り返したことがありました。結局最終的にはグレーだったのですが、妊娠した時はお医者様に言うようにと言われました。

その時はANA(自己抗体値)が高く、胎児を異物と感知して体外に出そうとするループスという病気の可能性が高いという診断でした。


今から30年ほど前のインターネットが一般的でない時代です。

病院の帰りに日系の本屋さんに寄り、医学コーナーで本を探したのですがあまり欲しい情報には辿り着けず。ようやく見つけた本には、ループスは日本語では全身性エリテマトーデスという膠原病で、こういう症状が出て、こうなっていく、、、と色々書いてありましたが、新婚時代の私には情報量が多すぎて、、、子供もまだ居ないし今のうちに離婚した方が夫のためになるのでは無いか、と悩んだりしたのですが、結局100%その病気と確定したわけではないので、とりあえず様子をみようということになりました。


それから2年後くらいに子供を授かったのですが、妊娠6か月くらいから早産の危険があるということで毎週か隔週かは覚えてないのですが、お水を2リットル飲んで自分で運転してエコーを撮りに行きました。


結局息子は予定日を過ぎてから破水し、促進剤を入れても陣痛がうまくつかず、緊急帝王切開になり4キロ近くのデカベイビーとして無事に生まれました。


朝入院して夜の手術だったのですが、2泊して退院。手術の翌日には自分で立ってシャワーを浴びるように言われました。


退院してからもお腹が焼けるように痛くて、でもこれが普通の痛みなのか異常な痛みなのか初めての手術でわからず、、、痛み止めを握りしめて時計を睨む日々🕰️


母が日本からお手伝いに来てくれたのですが、仕事もしていたので結構ギリギリの日程で、結局退院した翌日ぐらいにLAXに到着。よく利用させていただいていた日本人ドライバーの方にお迎えを頼みました。


母の武勇伝はまた書くとして、母が来てくれてからはお昼間は本当に色々してくれたので、おっぱいをあげる以外は母任せだったのですが、とにかくお腹が痛い。


結局手術してちょうど1週間後の明け方に授乳していて息子の向きを変えた時に、腹部が真っ赤に染まっていることに気がついて悲鳴💦


結果的には腹部が炎症を起こしていて傷口が開き、出血したみたいでした。


息子を母に託してまた病院に舞い戻ることに。帝王切開の時はエピデュアル(硬膜外麻酔)だったのですが、今回は全身麻酔で腹部に血液を集めるプレートを埋め込みお腹の外にその血液を集める袋をぶら下げる事に。


この時は一泊したのですが、クリスマス前という事でボランティアの方々が各病室を周りクリスマスキャロルを歌ってくださいました。


結局退院後は自分で数時間おきに袋に溜まった血?を何ml溜まったと記録をしながらお手洗いに捨てつつ、袋をぶら下げたまま自分で車を運転して産婦人科に通う生活が暫く続きました(夫はもうこれ以上遅刻も欠勤もできないという事でした)。


暫くしてからご主人も一緒に来てくださいと言われてプレートを引き抜いたのですが、この時は麻酔なしでしたw

怖くてみてなかったのですが、ずりずりずりって引き出したみたいです。もしかしたらプレートじゃなくてカテーテルだったのかなぁ、、、



で、まぁそのあとテープでペタペタ止めて、『Take care!』みたいな感じだったのですがその後も傷の治りが悪くてじわじわ出血する事数回。


これ、12月の話なんですが、その年ギリギリにその産婦人科の先生引退されちゃいました。日本人のおじいちゃん先生で、一度引退された後に患者さんの希望の声に押されて再開業されたけれど、多分、疲れちゃったんだと思う。こんな術後の様子の悪い妊婦さんなんてね、、、申し訳なかったです。


で、この時もループスの患者さんは傷の治りが悪いと言われて、、、ループスか、、、と思いつつ、その後娘も授かり、ケビン・コスナーに似たイタリア系白人の先生に私のカルテは引き継がれていたのでそちらで出産。普通分娩で大丈夫なの?と聞いても『Why not?』な感じで、娘の時はエコーを多めにとかも無かった気がします。


今思うと無事に2人出産できたのは本当に奇跡だったのかなと思います。深く感謝です。


ともかく、そんな事もあったなぁとはるか昔の記憶を思い起こしていたのですが、8年前の聴神経腫瘍切除の時の血液検査では特に異常もなく普通に手術。


で今回の最初のシャント手術の時の血液検査でAPTT値で引っかかり、何度か検査を繰り返し、結果的に抗リン脂質抗体症候群と診断されました。


因みに全身性エリテマトーデス(SLE)の英名がsystematic lupus erythematosusなのでループスはここから来ていますね。


私はSLEの診断は今回出ておらず、また出血の危険性より血栓ができた時の危険性が高いので、アスピリンを予防のために飲むようにと入院中に言われており、退院1週間前から服用が始まりました。


とにかく手術を回避できるならなんでもします!な気持ちで服用も始めたし、正直脳腫瘍の手術の心身へのダメージが強すぎて、膠原病の一種、あぁそうなんですか、、、位の気持ちだったんですね。自覚症状が傷跡からちょろちょろ出血するぐらいのことだったので。


しかし退院して2か月ほど経ってから、気がつくと青あざができているようになり。。。

アスピリンと高血圧用のお薬は近所のかかりつけの先生に出していただくように、という事で処方していただきに行った時に、この青あざってお薬飲んでるから仕方ないんですよね?と聞いたら、一度主治医の先生に話してみて、と言われて前回の診察の時に聞いてみたら、一度専門の先生の診察を受けて、と言われて今週行って来ました。



結論としては、四肢にできている場合は気が付かずに軽くぶつけている事もあるのであまり気にしなくていい。ただあざの増え方がもっと多くなったり胴にできた時はまた先生に伝えるように、とのことでした。


歳を重ねると色々不具合が出て来ますね。


自分の人生のゴールがどのようになるのかはわかりませんが、終わる時にはなるべくサクッと終わらせたいので、そうなるようにできることはして気をつけていきたいと思います。


写真は病院へ行った時の雨の東京タワーです🗼

12月10日に念願の退院ができました🙌


外壁塗装工事中で、お玄関の柵や壁に触ってはいけないのが難易度高く💦

微妙に傾斜しているのも難しい、、、


それでも退院!

久しぶりの自宅!


ヨロヨロしながらでも自力で階段を上がり2階のリビングへ。

嬉しい!


この辺りも記憶が曖昧なのですが、2,3日は調子も良く、娘と一緒にリハビリがてら近所のスーパーにも。

しかし、8年前と違い歩くのが大変で、、、

道の何気ない傾斜やでこぼこに足を取られて苦戦。帰宅したらくたびれて横になる、と言った感じ。


お風呂も病院はシャワーでしたが自宅は寒くて、、、

帰宅した日はシャワーもやめたのですが、次の日だったかな、、、シャワーを浴びた後にあまりに寒いので浴槽に浸かったのですが、これが良くなくて、嘔気が戻り、また嘔吐タイムが戻ってきてしまいました。


結局この時点で入院1週間前から13キロくらい痩せてしまっていました。

更年期のあと、仕事のストレスからの暴食でわがままボディになり、色々やっても全く痩せずに育つだけだったのに、一気に痩せて。あすけんさんの目標体重をも下回ることに。(フラフラしたけれどこれだけはちょっと嬉しかったw)


結局調子が良かったのは2〜3日だけで、その後はほぼほぼ横になっていて、嘔気と戦っていました。


息子の未来のお嫁さんがその頃に来てくれて、私はもう寝たきりだったので、娘が1人で頑張っておもてなしのお料理をしてくれて。

一緒に食べたかったけれどそれはもう無理で。


リビングのソファに横になったままでしたが、直接会えて、ほっとしました。


早く籍を入れてね、と伝えて、クリスマスの頃に関西にいる私の兄夫婦の所に挨拶に行ってそのまま京都で籍を入れる、ということになりました。


ホッとして気が緩んだのか具合がとても悪くなり、夫が病院に電話をしてくれたのですが、主治医の先生がお休みの日で。今いらしても出来ることが無いと。7119に問い合わせてもくれたのですが、搬送可能な病院に水頭症の専門医がいる確率がとても低い、とのことで後1日自宅で我慢して、翌日いつもの病院に連れて行ってもらうことになりました。


スレッズなどで、退院したい!というくせに、すぐ舞い戻って来る患者さんなんなん?という投稿がたまにありますが、まさに1週間後には舞い戻ってしまい申し訳なかったです。


この後の記憶が途切れ途切れで。


食事の写真を毎食撮ってたのですが、フルーツばっかりだったから、嘔気がひどくて果物を少し摂ってただけなのかもしれません。


時々はっきりとした記憶が残っていたので自分としてはしっかりしていたつもりですが、この頃にはもう意識が混濁している時間が長く、ステロイドを打っていただいた少しの時間だけ意識がはっきりしていたみたい。


結局脳内のタンパク濃度が全く下がらず、今のままの状態で腫瘍が縮むのを待つか、大元の腫瘍を切除するか、という話になったみたいです。しかし、8年前に執刀してくださった元主治医の先生も歳を重ねられて、自分は手術はもうできないと。しかし今のまま腫瘍が縮むのを待つのも難しい。

結論としてこの病院でできることがもう無いですということと、会わせたいご家族には連絡をとってください、という事で、急遽関西にいる兄夫婦が日帰りで会いに来てくれました。


会いに来てくれたのはわかったし、お話も少ししたので、思うように良くならないから心配してお見舞いに来てくれたのだとばかり思っていたけれど、実際にはこれで最期かもの覚悟を持って来てくれたのは後で知りました。


最近娘に聞いた話では、この頃の私は、眠ってしまうともう目を開けないのでは無いかと思い、揺り起こしたい衝動に駆られていたと。


そして嘔気がひどく、人間はこんなにも苦しまなくてはいけないのかと思い、本当に見ているのが辛かったらしいです。


私はこの辺りの記憶があまり無いのですが、良いのよあんな苦しいこと覚えてなくて、と言われました。


この時の兄夫婦を含めた今後の話し合いで、転院しての開頭手術を勧められ、紹介状を書いて手続きをしてくださいました。


私は割と明るい材料として転院開頭再手術を選択したのだと思っていたのですが、実際のところはもっと悲壮な感じで、もう助からないのならばダメ元で開頭手術をお願いしよう、と言った感じだったらしいです。


ただ義姉や仲良くなったリハビリ先生などは、T病院に転院と聞いて、これは助かる!と思ったと言っていました。義姉は、助かる見込みがなければ引き受けてくださらないだろうから、引き受けてくださるということは助かる!と思ったと話してくれました。


自分的にはしっかり意識もあると思っていたけれど本当は合間の意識がちょっもはっきりしている時に、転院して開頭手術を受け、タンパク質の原因となっている聴神経腫瘍を再度切除していただくから、と夫が伝えてくれました。

民間の救急車にお世話になり転院。

娘が救急車に乗ってくれて、夫は車で追いかけるからと。


主治医の先生も、自分が同じ症例なら1番お世話になりたいチームだから、安心して手術を受けてきてください、と言われました。この言葉はその後も何回も思い出し、きっと大丈夫、と自分に言い聞かせる力にもなりました。


実は転院のために救急車に乗ったことなどはぼんやりとしか覚えてなくて、気がついたら新しい病院の病室にいました。


主治医の先生は、走って来てお見送りをしてくださったそうです。



写真はこの一時退院の時に娘がお洗濯してくれた私のパジャマと持ち込んでいた抱き枕🐕