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鈍色の空から時折。。。雨が
なかなか雪は降りませんが
とうとう天草最大の敵
冬将軍
がやってまいりました。
これから2月までが天草は苦難の季節。
早く来い来い春よ来い
あまり三角西港について触れいませんでしたので。。。
騒ぎの収まりかけた今
「三角西港物語」として。。。三角西港と関連物語
を書いていこうかなぁ~と思っています。
まぁ。。。そこそこに脱線しながらです
時代は正に「坂の上の雲」の時代
誰も後ろを見ず、坂の上に浮かぶ雲ただ一点
を見据えて歩いていた時代。。。
西洋列強の植民地化を阻む為、ただひたすら
近代化にまっしぐらに突き進んだ時代。。。
廃藩置県が発令されたのは明治4年です。
当時は熊本県・八代県の2県が置かれましたが
その後熊本県は白川県となり、更に白川県が八代県を統合し
明治9年には現在と同じ領域の熊本県となっています。
明治9年。。。まだ西南戦争前ですが。。。
その頃には三角西港建設の計画が始まっています。
当時は九州の中心地と見られていたのは熊本県であり
鎮台が置かれ、第五高等学校も置かれています。
九州の中心地である熊本に大型船(軍艦・貿易)の停泊できる
港が無かったのが三角西港建設の最大の要因です。
(当時は1000tクラス)
しかし一番の問題は有明海が遠浅であることなのです。
その中で水深が確保できる航路があり、波が穏やかな
三角に港を建設する計画が持ち上がったのでした。
有明海で一番深いのは大矢野島の沖に浮かぶ湯島沖で
140m程度です。
三角が浦から三角の瀬戸を通り八代海側から牛深の海峡を
抜けて東シナ海に出ると3日程で上海に着きます。
尤も中国本土に近かったのも理由の一つです。
今と違い壮大なスケールとスピードで近代化は推進されます。
明治17年から建設を開始し明治20年には完成しています。
当初は貿易品の振り分け港として建設されましたが
三池炭鉱の石炭を上海に輸出する重要な役割を
明治24年~37年の間担う事になります。
調査・設計にあたったのはオランダ人ムルドル。
何と月給は今のお金にすると400万円
この先は次回
さて熊本鎮台の初代司令官は桐野利明です。
幕末の人斬り「中村半次郎」です。
肥後では川上彦斉が有名ですが
二卿事件に連座して(と言うかさせられて)
明治4年に斬首されています。
「るろうに剣心」のモデルとか?
熊本県では「神風連の乱」も発生。。。
それでも歩みは止めず。