18歳で高校卒業。

金髪だった。トランス大好き。

受験へは上下スエット的なかっこうで行った。

 

 

4月に愛知から東京の武蔵野美術大学へ通うため上京。

(受かった奇跡よ。)

ひとり暮らしスタート。

 

 

6月で19歳になり

8月に表参道を歩いていたところスカウト。

スカウトは多かったが、好きなタレントさんがいた事務所で、

EQという、IQとは違う、

E(エモーショナル)を第一にしている事務所で

人の心を大切にしている方針に惹かれEBAのプロダクションと契約。

 

入ったは良いが、

事務所内ではうまくかみあわず、

家から六本木にある事務所も遠くレッスンに通うにも

交通費が往復2000円くらいした。

大学の授業や課題も忙しく、ひとり暮らしでバイトもして、

レッスンもたくさん出た。

まるで寝ていない生活でぶっ倒れそうだった。

 

事務所に用事があって向かうと、

唯一高峰さんが「太田ちゃん!元気!?」と、

名前を呼んで笑顔で声をかけてくれた。

高峰さんはわたしのマネージャーではなかったのに。

なぜ名前知ってるの?というレベルの関係性だったのに。

 

そんなマネージャーでもない高峰さんの

一言の挨拶が

毎回とても嬉しかった。

 

 

レッスンだけしていたらだめだと思い、

自分でブログを始めた。

そのころはブログを書いている人はとても少なかった。

世の中にツイッターなんてものもなかった。

ネット投票の「あどるみっけ」というオーディションサイト?

ファン投票サイトをみつけ応募した。

ライブなど出たことはないし、ただレッスン受けてるだけで、

あとはブログ更新するしかなかったけど

頑張っていたらネット投票1位になった。

 

 

そしてブログをコツコツ書いて頑張っていることを、

レッスンに沢山でて、頑張っていたことを、

ネット投票サイトで1位になったことを

高峰さんだけはこっそり知ってくれていた。

 

 

そんなとき、

わたしの当時のマネージャーMさんが急遽退社した。

マネージャーとはいえ世話になった記憶はないが、

ともかく退社した。

わたし含め、このマネージャーMが受け持っていた所属者数名は

マネージャー不在となった。

 

 

次のマネージャーは高峰さんがいいなと

心の中でこっそり思っていたけれど、

わたしにはそんなこう言う権限はないし

そもそも高峰さんはモデルさんを受け持っていて、

しかもほぼメンズモデル。

雑誌に出たり、ファッションブランドとのお仕事だったり、

あとファッションショーとか・・・そういうお仕事ばかりだった。

なので、わたしはモデルにはなれないので

高峰さん以外のかたになるだろう。

どうなるのかなーと見守っていた19歳のわたしだった。

 

 

そしたら、

「高峰さんが女の子で見たい子がいるててゆってて、、

太田ゆうきさんのお電話番号であっていますか?」

と、事務所のどなたかから電話が来た。

 

太田ゆうきさん僕が担当していいですか?

太田さん次第ですが。。

 

と、事務所内で声をあげてくださったと聞いた。

びっくしりつつ、高峰さんと打ち合わせをすることになった。

 

 

「ゆうきさんは何がしたい?」

ステージに立ちたいです。

人前に立ってなにかアーティストとして

作品を魅せられるようになりたいです。

表現者になりたいです。歌になるの・・・かな?

ステージに立ちたい。

そんなようなことを言ったと思う。

 

 

高峰さんはモデル系のお仕事ばかりで

歌に関してはつながりや知識は皆無だった。

一緒に0からやることになるけど、良いか?

一緒に0から1を作ろう。それって大変だけど、

協力してやっていきましょう。

とのことだった。

 

そうこうしていたら、19歳の冬になった。

 

 

そんなある日、高峰さんから電話。

 

「アイドルって・・・興味はなさそうだけど、

それはわかっているんだけど。。

アイドルライブに出させていただけるとしたらどう?

やる気ある?」

 

 

松田聖子さんしか浮かばなかった。

正直、アイドルというものに本当に興味が無く生きてきていた。

スカートももってないし、

レースのフリフリとか持っていなかったし、

アイドルってなんだっけというかんじで。

スピートさん?でもわたしはソロだから、

松田聖子さんかな?

 

ほんとうに知識はこれだけだった。

 

 

まったく興味がなかった分野でしたが、

知らないのに嫌うのは間違っているとおもい、

「出たいです!!!」と即答した。

 

 

上京して1年がたった4月。

アイドルイベントにでることになった。

ほんとにバラエティーイベントといったかんじで、

いまはない秋葉原の石丸電気さんでのイベントで

よくわからないけどお客さま100名以上いた。

超たくさんいた。

 

わたしの全く知らない世界だった。

共演者さんはメイド服着てたり、

猫耳つけて語尾はニャンニャンだったり、

ぬいぐるみとしゃべっていたり、

なんちゃら星からやってきた人だったり、、

 

異次元だった。

もはや恐怖だった。

 

嫌うとかではないけどなれない人間しかいない現場すぎで

どう対応していいかわからなかったが理解しようとした。

きっと、知らない魅力があると思って。

そしてお客さまに求められているものはなんなんだろう。と。

 

でも猫耳もメイドも水着も異星人も

がんばっていた。それぞれ一生懸命だった。

 

バラエティーで体をはるひとも、

キャラクターで突き抜けようとするひとも、

少しでも喋る隙間を貰えるようにと必死だったと思う。

わたしも必死になった。

毎回、出番以外もすべてのステージをステージサイドから見ていた。

MCの芸人さん、仕切っていたイベンターさんに

どうしたらもっとよかったのか相談した。

もちろん高峰さんとも。

 

 

高峰さんとはかなりの時間、ステージというものに関して、

表現者とはなにかということを議論した。

というか、時間をさいてもらった。

今でこそ優秀な後輩が入ってくるが、

わたしは一番出来損ないだったとおもう。

なによりこのとき、体重がガツンと増え、見た目もどすこいだった。

 

ステージで自分の名前も言えなかった。

名前も言えなくて、焦って、「A型です!」とか、

そんなかんじ。

 

 

そんな私を、ステージでしっかり名前が言えるように、

前を向いて歌えるようにしてもらえた。

 

ライブイベントも決まった。

決戦は金曜日をうたった。

お客さまにはウケなかった。

 

お客さまは盛り上がりたいから、

楽しんでもらいたいから、

盛り上げれて、さらに自分の好きな曲をさがした。

 

Love&Joy  だった。

 

 

 

そこからはもう話すと長いから割愛するけど、

 

 

 

ともかく、いろんな出来事があった。

お客さま3名出演者5名なんて日も多かった。

 

オリジナル曲一曲もないのに、

ライブステージ立ったこともないのに、

持ち時間30分。お客さま2名。とか。

 

 

人気アイドルの歌を歌ったらお客さまは喜ぶかと思い、

歌ったはいいが歌詞と振り付けをまちがえまくり、

その人気アイドルのファンのかたに怒られたこともあった。

(愛のある怒り方でして、ごもっともなありがたい助言でした。)

 

 

高峰さんは、

「太田さんのこと面倒みられていますが、なぜですか?

ちょっと厳しいんじゃないんですか?正直、時間の無駄では。。」

というようなことを何度か色んな人に言われているのを知っていた。

高峰さんは「大丈夫ですよ」と笑顔で言ってくれていた。

 

 

 

ともかく、いろいろ研究してがんばった。

歌う曲も、衣装も、フライヤーも、ステージの動き方も

高峰さんとアイドルというものに関し研究した。

にらみを効かせながら、ほかの演者さんのステージをみた。

 

 

人になんと言われようが、

呼んでいただけたライブにはすべてでた。

 

20歳になっていた。

その日の夜は、ライブ終わりに、

高峰さんと初めてお酒を飲んだ。

 

 

ほかのライブハウスのかたにも呼んでいたただけるようになった。

オリジナル曲ができた。

ファンのかたができた。

褒めてくれる人があらわれた。

オーディションに受からないと出してもらえない撮影スタジオで

個人撮影会を定期的に組んでもらえるようになった。

雑誌に掲載してもらった。

お声がかかり、ドレスを着て雑誌の表紙モデルになった。

自主制作DVDを作った。手焼きなので作るのも時間かかったけど、

物販物ができた。うきDコールができた。

ワンマンライブをさせてもらえた。お客さまは27名だった。

仲間ができた。まーたん、るいちゃん。

うきまーるいって呼ばれた。友達ができた。

ライブが年間200本以上になった。

お客さまも毎回100名以上の汗だくの熱量の半端ないライブだった。

白熱しすぎて、前のめりすぎて、ステージから落ちたこともある。

ラジオにもだしてもらえた。

高峰さんは昔、「たかみねけんとの、話しだしたら止まらない!」というラジオをやっていたという話を聞いた。

共演したい!とおもっていたライブアイドルさんたちとライブ共演出来るようになった。

MCも出来たほうがいいから、勉強した。

どのイベントも、わたしがMCになった。そして出番は歌わせてもらった。

MCと歌と両方できるようになった。

後輩が増えた。

ブログはどれだけ忙しくてもすぐ書くことを高峰さんと決めていたので、寝落ちしながら書いた。

書いたことで遡ることが出来るし、なによりお客さまにお礼が言えた。

ここ12年間でわたしはライブやイベントを休んだことはない。

でも風邪で高熱が出たことがある。顔を強打して腫れ上がり、熱がでたこともある。

グラグラ意識朦朧なわたしに冷えピタに耳栓、薬、を即座に買ってきて、

ステージだけはバリっと出来るよう協力してくれた。そして即帰宅出来るように対応してくれた。

芸能とは関係ないことで、人に騙されたことが何度かある。

これはわたしの甘さが原因だが、どうしようもなくなった。

そんな関係ないことまで、世話になった。助けてもらった。

東名阪ライブツアーを組んでもらった。

CDリリースをしてもらって、カラオケにも入った。

撮影もたくさんしてもらって、自分の写真が増えた。

オリジナル曲がでいたらいいなあとおもっていたけど、

たくさんできた。どれも歌詞はわたし。わたしの作品が世に生み出された。

たくさんのかたに関わっていただいて出来た。それもすごくうれしかった。

また後輩が増えた。仲間が増えていった。

大きなステージにだしてもらえた。

お客さまが波の様だった。

テレビにもだしてもらえた。友達がみてくれた。

わたしがやさぐれていても、「大丈夫」と言った。

実力はついているし、かならず良い方向につながっていくと言った。

 

こんなに長く密に接しているけれど、

かならず「太田さん」「ゆうきさん」そして敬語で話してくれた。

綺麗な言葉とモラルを姿勢を背中でみせてくれた。

お客さまのありがたさ、優しさや気持ちを一番わかっていた。

共演するかたたちに「高峰さんがマネージャーなの本当にうらやましい」

と、よく言われた。

 

 

書ききれないというかキリがないのでやめますが、

天国から見てるとおもうので

これからの活躍に期待していただけたらと思っています。

 

悲しみにくれるのも必要だけれど

悲しみにくれ続けるのも望まれてはいない。

きっと、ありがとうと言っているはず。しらんけど。

もうしばらく悲しんでろ!

とは言わないはず。

 

悲しさは切り替えて変わるものではないですが、

しばらく仕事の予定もツメツメだったので

これはこれでありがたいですね。

 

取材予定4つはいってるんです。今月。

すごいでしょ。

ほんと、ありがたいです。

 

 

 

お客さま、関係者さまと一緒に築いてきた12年間でした。

頂いてきたものが多く、時間や思い出、

気持ちや暖かさを沢山感じた日々でした。

積み重ねてきたもの、出会った皆様は宝物です。

 

ツイッターでも書きましたが、

きっと高峰はお礼が言いたいかもと思い、

私は嫁でも彼女でもないですが代わりに。

 

 

!!!本当にありがとうございました。!!!

 

 

 

いつか私が死んだら、

死ぬのが早いという理由で

高峰を一発殴らせてもらおうと思います。

そして、この後の成長を褒めてもらおうと思います。

 

なんでも、高峰さんのお母様いわく、

わたしのことが誇りだと言ってくれていたそうです。

出来損ないなのに。誇りだって。

 

こんなにあたたかいマネージャーと一緒に仕事ができて

わたしが誇っていたんですけどね。

 

 

もっとすごくなるから、

天国でも自慢してください。

 

 

 

 

こんごのわたしも、

あたたかくみなさま、かわらず応援くださいませ。