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ただいま、おかえり

山田花畑の番外編

治療が進んで行くと、だんだん自分を正視眼で見ることができるようになってくる。

今まで良いと思っていたことが、良いと思えなくなったりする。
例えば、友達と思っていた人との関係が、共依存であったりすることに気がつく。

M 子さんは、何年もカウンセリングに通いながら、育っていなかった自分を育て直していた。
意欲的に心身症に関する書籍を読んだり、セミナーに参加したり、カウンセリングの講義を大学に受けに行ったりした。



そして、それらから学んだことを、自分の身近にいる問題を抱えている友人たちに一生懸命伝えていた。
いや、一生懸命伝えているつもりだった。

自分と同じように、家庭に問題を抱えている友人たちはさぞや辛いだろうと。
その姿は一見、志のある誠実な行動のように見えた。

が、しかし、その友人たちの問題は解決せず、時々会って食事をしたり、お茶を飲んだりする時間がどんどん伸びていった。

休日、ランチの約束をした友達と、解散するのが深夜の 12 時を過ぎることもしばしばあった。
さすがに深夜になると、翌日の生活に支障をきたすので、適当なところで切り上げられるよう、M 子さんは夜 7 時になったら電話をかけて欲しいと家族に頼んで出かけるようになった。

友人には共通点があった。
お母さんから、自分の存在を無視され続けた結果、自己肯定ができず、常に人間関係に問題を抱えていた。

M 子さんと会っている時は、近況を話した後、今気持ちの中にある不満をぶちまけ、自分を不幸に陥れているのは、親や上司や特定の友達だと言う。

いずれにしても、自分に気持ちを向けなければ物事は解決しないので、M 子さんは力を込めて話をする。
友人が「わかった」というまで、何時間でも必死で話す。
そのうち、友人は一粒涙を流し「わかった」という。

友人が「わかった」というタイミングは、あと数分で帰るすべがなるなるタイミングだ。

この関係を共依存という。

M 子さんはこのような状態になる友人がいつも 2-3 人いること、そしてその友人たちは、「わかった」と言っても、自分を変える行動を起こさないことに疑問を感じるようになってきた。

そして、今まで良かれと思ってやってきた自分の行動が、かえって友人たちの病理を深めていることに気がついた。

M 子さんの友人は、本気で自分の問題を解決するより、今自分の目の前にいる M 子さんに、自分が満足するまで一緒にいて欲しいと思っていただけだったのだ。

人は、居心地が良い場所や、自分の存在が肯定されるところに留まりたいと思う傾向がある。
が、その行動が生活に支障をきたす状態は病的と言える。

M 子さんは、それぞれの友人と仕切り直しをした。
結果、今まで自分のスケジュールを占めていた友人が見事にいなくなった。

少しさみしいとも思ったし、悪いことをしてしまったかなとも感じた。
M 子さんがそう感じてしまうこと、「NO」と言えないことを、去っていった友人たちは本能的にわかっていたので、限界まで一緒にいてくれる M 子さんを選んでいたことに M 子さんは随分あとになるまでわからなかった。

しかし主治医は、「これからは人間関係がかわりますよ」と M 子さんに告げた。
M 子さんは、人生最初の登場人物であるお母さんとの関係に問題があり、人間関係を「信頼」で構築することの意味がわからなかったのだ。

信頼関係の上に成立する人間関係があって、人は充実した人生を初めて送ることができ、そんな日常に心からの幸福を感じるのではないだろうか。
子供の頃、大きくなったら何になりたいかを誰もが考えたことだろう。
小学生では、作文の課題にもなったことだろう。

そして、だんだん大きくなって行くと、自分が向かう方向を見つめ始める。
将来何になりたいかより、大人になったらどうやって食べて行こうかを考え始める。



その時、これから描く自分の人生の青写真の隣に、養育者の生きる姿を並べてみる。
養育者の生き様が、多かれ少なかれ、良きにつけ悪しきにつけお手本となるのだ。

お母さんみたいに無知にはなりたくない。
お父さんみたいに、毎日通勤ラッシュに揉まれて会社に行きたくない等、養育者を反面教師にする場合もあるだろう。
反対に、お母さんみたいなお母さんになりたい。
お父さんの仕事を継ぎたい等、養育者の背中を見る眼差しが温かい場合もある。

子供の、養育者の背中を見る眼差しが温かい場合、その養育者は子供の背中を温かく押しているにちがいない。

そうでない場合、子供の眼差しの温度と養育者の子供を見る眼差しの温度は等しいと言える。

M 子さんはずっと、自己実現に悩んできた。
自分のやりたいことと、置かれている現実があまりにもかけ離れていた。
M 子さんの家は決して裕福とは言えず、弟妹もいた。
自分の将来について、勉強させてもらえるだけの十分なお金がなかった。

それでも、学費を払ってもらっているという負い目を感じていた。
なぜ負い目を感じていたかといえば、
「高い学費を払っているんだから、しかり勉強しなさい」とお母さんが口癖のように言っていたからだ。

温かく背中を押してあげられる親は、子供に学費をかけていることが負担などとは口が裂けても言わない。
言わないが、子供には、お母さんが自分のためにやりくりをしてくれていることがちゃんと伝わるのだ。
本当に子供を思いやれる親の姿や心は、子供に伝わるのだ。
そんな子供の心には、期待以上の大きな未来を開く力が育まれる。

親に負い目を感じている子供は、自分の夢をだんだん素直に描けなくなる。

やりたいことをやることは、わがままだとか、贅沢だと思うようになる。

だからやりたいことを職業にしようなどと思わなくなる。
また世の中には、妥協のための都合の良い言い訳もある。
「好きなことを仕事にしたら苦しくなるから、趣味止まりがちょうど良い」

確かに経済的な事情は将来に大きく影響するのだが、それよりも自己実現に大切なことがある。
それは、どんなことをしてもやり遂げたいという意思なのである。

意思を持たなくては自己実現は叶わないのだ。
そして、その意思を持つのは子供の自由なのだ。

子供の自由な心に、養育者が自分の事情で介入してはいけない。

では、意思を持つためには何が必要か。
それはただ一つ。
私はできると 100% 自己肯定することだ。

自己肯定できる心は、養育者によって好ましく育まれる。
しかし、世の中うまくいかない場合もある。
必ずしも養育者である必要はないが、ちょっとの自己否定も自身の道を阻むだけなのである。

100% の自己肯定と、前進している自分の心に共感することにより、自己実現するための力が育まれてゆくのである。
その力は、経済的な事情をも超え、歴史を変えることもある。

学歴が低いとか、お金がないとか、私はあの人とは違うとか、そんな言い訳に甘んじては叶わない。
自分の人生は、自分が望んだようにしか開けない。
だから、自己否定は人生にはまったく不要なのである。

そして何歳になっても、自己実現を諦めることはないのである。
人は育った環境に柔軟に適応して生きる性質がある。
良し悪しにつけだ。

置かれた環境の中で、自分の存在が望まれていないならば、また、自分の存在が無視されている状況であるなら、その環境と同じ心の温度で自分を育み始める。

F さんは、自分の存在を望まれたものと思わずに生きてきた。
お母さんに抱っこされた記憶はなく、優しい言葉をかけてもらった記憶もない。
だからいつも、どこにいても自分はここにいても良いのかと、不安になっていた。

また、少しでも自分より年が上で、穏やかに話を聞いてくれる人がいた場合、滅多にない居心地の良さを感じ、ずっとそばにいたいと思ったりした。



しかし、ずっとそばにい続けてくれる人などいないのである。
なぜなら他人だからだ。

養育者に満足するまでそばにいてもらった経験のない人は、本能的に誰かにそばにいて欲しいと思う。
これは人間として生を受けたものの、宿命のような習性である。
人間は養育者の様々な保護や援助によって、成長するものだからだ。
これは、必要最低限の衣食住が満たされれば良いというものではない。

満たされなかった欲求は、満たされたい欲求として、高い優先順位のまま存在し続ける。

F さんは、ずっとそばにいたいと思った誰かとの別れ際にいつも思った。
「誰か私とずっと一緒に生きてくれないかな」
この気持ちは、非常に原始的な依存心であり、当たり前の感情である。
言い換えれば、依存心が満たされて初めて人は自立して生きられるのである。

寂しい気持ちを抱えて生きている人には、本人には解決できない依存心が存在している。
原因は、必要な時、必要な時間養育者に見てもらえなかったからである。
たったこれだけの理由で、人生は大きく歪むのである。

依存心を抱えて生きて行くと、その依存心が人間関係の失敗体験を生むことが起きてくる。
求めすぎて嫌われるのだ。
人間関係での成功体験がないため、人との距離の取り方に失敗をし、どこまでも相手に近づいてしまったために、相手から拒否される。
想定外の拒否に、改めて人生の挫折を味わう。

挫折は味わえば味わうほど、次の出会いに恐怖と執着をもたらす。
その気持ちは日常の多くを占めるようになり、多分なストレスとなる。

本来人間は、群れをなして生きる動物であるから、集団で生きることを本能的に欲するし、他者との円満なコミュニケーションを欲する。
その気持ちを平たく表現すると「仲間と仲良くしたい」である。

Fさんのような人の場合、「仲間と仲良くしたい」気持ちは、恐怖と執着によって「また嫌われたらどうしよう、うまくできなかったらどうしよう」と言う、歪んだ気持ちにすり替えられ、その気持ちをどんどん肥大化させてしまう。
本来望んでいた気持ちは隅に追いやられてしまい、歪んだ気持ちに心が占拠されてしまうのである。

この化け物のような気持ちを育てるのは、実は自分なのだ。
まったく悪気はなく、幸せに暮らしたいと思っているはずなのに、本人も意識していないうちに、自分の心の一部が魔物と化してしまう。
これは、がん細胞の増殖の仕組みによく似ている。

心がこのように変化することを、心を病むという。
この場合、これ以上心配を増幅させてはいけない。
しっかり治療をすることだ。
そして、治療を始めたら、やめないことだ。
心の治療は生きてきた人生の色を塗り替えることに等しいため、ある程度の年月を要する場合がある。
従って、覚悟がなければ完治させることは難しい。
しかし、真摯に取り組めば絶対に完治できる。

どんな覚悟が必要か。
この一大事は意外と自覚されないため、治療が頓挫したり、中断されることがある。

受け入れがたいスタート地点に立つことだ。

それは、あなたはお母さんから愛されていなかったということである。

だから病んでいるのだ。

健全に愛された人は、心を病むことはない。
愛されていなかったかもしれないとは感じていても、実感として受け入れていない人が大勢いる。
救いようのない現実の中にいる自分を、本気で救えるのは、事実を冷静に受け止めた自分自身なのである。

F さんがそのことに気付いた時、どれだけ泣いても涙は枯れないことを知った。
そして、駅のホームの縁に立っていた自分に驚愕した。
養育者に愛されることは、人生の足元となるのである。
嫌悪感の強い人、他人の目が気になる人等、自分の周囲の人の存在が気になる人に共通していることがある。

多くは対人関係に自信が持てず、煎じ詰めれば、周囲の人との関係構築に意欲を持つことができない。

周囲の人間関係に対し緊張し、時に恐怖すら覚える。

このような人にいろいろ聞いてみると、お母さんとの関係に遠慮があったり、距離がありすぎたり、意思の疎通が図れないなど、お母さんとスムーズなコミュニケーションができない状況を抱えている場合が多い。




人が生まれて初めて出会う「人」は、多くの場合お母さんだ。
だから生まれて初めて人間関係を構築するのは、お母さんが対象となる場合が一般的だ。

そして最初の人間関係構築から、少しずつ人生に登場人物が増えて行き、それと同時に生きる世界が広がってゆく。

お母さんから自身の存在を肯定され、愛情が注がれた場合、最初の人間関係は円満で、心地よく喜びを伴う。
従って、次なる人間関係も円満な場合が多い。
次なる人間関係とは、父親であったり、姉妹兄弟や親戚などとなる。

人生の登場人物が徐々に増えても、基礎となる人間関係が磐石であるなら、新たに登場する人物に対して、期待や好奇心で接することとなる。
そのような場合、その子にとって人とは、仲間であり、親しき同志となる。

しかし、幼稚園、保育園、学校など登場人物の数が増えてゆくにつれ、想定外の人物が登場する場合もあり、人間関係に意図せぬ結果が伴うことも学習する。
しかし、磐石な基礎があれば、心が揺らぐことはない。

では、人生最初の登場人物であるお母さんとの人間関係がゆがんだ場合はどのようなことが考えられるか。
例えば、お母さんに嫌悪感が強く、赤ちゃんを育てることに自身が持てないような場合を考えてみよう。

その場合、赤ちゃんの心には不安が伴う。
自身の存在価値を見出せなくなる場合も多い。
だから、お母さんと一緒にいても、赤ちゃんの気持ちは安定しない。

従って、お母さんと適切な距離を保つことに失敗する。
最初の人間関係構築が揺らいだ場合、次なる人間関係構築には不安を伴ったまま立ち向かうことになる。

それは、基礎のない上に柱を立てるようなものだ。
人間関係に対し成功体験を持てないまま生き続けることは、世界が広がるにつれ、登場人物が増えれば増えるほど、日々の生活はストレスフルになる。

時に成功をともなうことも無くはないが、肝心の基礎がゆがんだままでは、子供は安心して世界を広げることができない。
このような状態で、集団に入っていった場合、何かのきっかけで世界を広げることに限界を感じ、学校に行くことができなくなったり、集団に適応できなくなったりする。

気づけば周囲にいる人の存在の多くは敵となる。
具体的に何か攻撃されるわけでは無くとも、周囲に人がいるというだけで、距離の取り方がわからず緊張し、ストレスを感じる。

周囲にいる人が、仲間であるか敵であるかの違いによって、その子の生きる世界には天地の差が生じるのである。
それは同じ教室という空間にいたとしても、かたや心地よい喜びをともなう世界であり、かたやストレスだらけの地獄の釜の底であったりする。

子供はある日突然おかしくなったりはしないのである。
最初の一歩から、堅実な一歩一歩を歩める環境を、与えてあげる必要があるのである。

親になるということは、人の心を作り上げる重大なミッションを担うことである。
その重大事は、堅実な日々の積み重ねの中にしか、成功はあり得ないのである。
毎日色々なことが起きる。

表に見えることは、ほんのわずかで、それぞれが心に抱いていることは計り知れないものだ。

カウンセリング治療を続けていると、自分の中で押し殺していたささやかな、しかしとても大事な本心の気持ちが見えてくる。
長い間気づいてもらえなかった本心は、日の目を浴びることなく心の壺の中で泣いていた。

そんな歴史はいつから始まったか?



本来であれば、1歳に満たない小さいうちから、心の外に出して向き合ってこられたかもしれない。
人は、この世に送り出されて間もなくすると、自分の意にそぐわないことが日に何度も起こることを学習する。

お腹が空いたり、身辺が不快であったり。
言葉にできない代わりに泣いてみると、お母さんによって快適さや満足を与えられることを知る。


ある時、体を移動したくて、体をくねくね動かしていたら、テーブルの足に頭をぶつけて痛かった。
泣いてみたところ、お母さんがやってきて、聞いたんだ。
「どうしたの?痛かったの?」
そうだ、僕は痛かったんだ。
お母さん、僕は痛かったんだよー
「そう、痛かったの。よしよし、もう大丈夫よ」
。。?そうなの?さっきは痛かったけど、もう大丈夫なの?

お母さんの手が、痛かった場所をさすると、本当に大丈夫な気がした。
僕は痛かったのに、お母さんに大丈夫と言われて、本当に大丈夫になった。

僕はこの時、頭をぶつけて痛くて泣き出した気持ちを解決できた。

僕に何かが起きると、お母さんが解決のしかたをを教えてくれた。
でも、解決するには必須の条件があるんだ。
それは、僕が味わっている気持ちをお母さんがわかってくれることが必要なんだ。

お母さんは僕の痛い気持ちをわかってくれたり、悲しい気持ちをわかってくれるから、僕の気持ちは安心するんだ。
もうこれ以上、痛がる必要がなくなるんだ。

この話は、経験者から実際に聞いた話だ。
痛がる必要がなくなるから、泣かなくて良くなるし、気持ちが解決するから、前に進めると。

精神分析学を引用して、お母さんから離れる段階を説明したが、子供が育つ過程では、お母さんから気持ちの解決方法を教わるという重大事があることも忘れてはけない。

いや、自分の気持ちを解決することは一番大切なことかもしれない。

一つの痛みや悲しみをお母さんに共感してもらいながら、その解決方法を具体的に学べて初めて、一歩一歩お母さんと距離を取っても大丈夫になる。

その時小さな胸に抱いた気持ちの対処を適切に行って初めて、人は健全に前を向いて生きられるのではないだろうか。
どんなに小さなことでも、解決できないまま抱えていれば、そんな気持ちはささくれて行き場を失うことだろう。

そのうちに、小さな気持ちが積み重なって、大きな山ができ、そのまま放置しておくと、自分に起きてくることを解決できないまま大人になることになる。

様々な精神疾患は、自分の気持ちを自分で解決できない果てに必然的に襲いかかってくるものではないだろうか。

人はどうしても見た目を評価しがちだが、育児で大事なことは、ご飯を与えることだけではない。
気に入った洋服を着せることだけでもなく、良い学校に入れることだけでもない。
目に見えることだけに気持ちを奪われてはいけない。

育児とは、子供が自分の足で立ち上がった時、自分に起きてくる様々なことに立ち向かう力、解決する力を与えることではないだろうか。

お母さんが子供の解決する力を育てていれば、子供は心を病むことはないのだ。

お母さんは、気をつけてあげてほしい。
我が子は自分の気持ちを、ちゃんと解決できているだろうかと。

そしてまた、もう一つの厳しい現実は。
自分の気持ちを解決できない問題は、何世代にもさかのぼって存在しうることだ。
そして、手を下さなければ、子々孫々まで受け継がれる可能性が大きい。

今、気づいたところで食い止めれば、子や孫が苦しみから解放される。
あなたの気づきで、負の連鎖を食い止められるのだ。