ただいま、おかえり -3ページ目

ただいま、おかえり

山田花畑の番外編

Fさんは、お母さんに会うのをやめようと思っている。
もう半年以上連絡をとっていない。

Fさんは、お母さんからメールが来るたびに不快な気持ちを覚えるようになっていた。
なぜなら、お母さんは要件を言わずとも、Fさんがご機嫌伺いをしてくれると思っているからだ。

10年ほど前にシングルマザーになったFさんは、子供達を食べさせるためにSEになった。
食べるために仕方がなかった。
そのFさんのところに、最近おかあさんから何度も連絡が入っていたそうだ。



ところで、、。
お母さんに愛情を注いでもらった記憶のないFさんは、自分の子供が生まれた時に困惑した。

ちゃんと育てられるだろうか。
愛情を注げるだろうか。

育児は困難を極めたが、いろいろな知識を吸収するうちに、Fさんは自身の心が育っていないことに気づいた。
不登校になったことも、不幸な結婚をしたことも、心が育っていないことが大きく影響していたと思うようになった。

そして、勇気をもって心の治療にかよい始める。
はじめは、心の整理がついて、じきに穏やかになるだろうと思っていた。
しかし、かなりの年月が経過した時、新しい事実に気がついた。

自分は、両親から虐待を受けていたと。
父親からは、暴力やいたずらを受けていた。
母親からは、言葉の暴力を受けていた。

Fさんは、両親はしつけが厳しくて変わり者くらいに思っていた。
しかし、事実は違っていた。

自分の育った環境の異常さは、毎日何十年もその環境で生きているため、それが普通の日常になっており、気がつかないものである。

Fさんはたまたま手にしたPTSDの本の中に、自分の育った環境と、自分自身の歪んだ姿を見つけたのである。
Fさんは、PTSDを1歳半から発症していたと推定できた。

両親から与えられていたのは、愛情ではなかったと知った時、人として生きて来た足もとが崩れ、気づいた時に、電車のホームの隅を歩いていたことが三度あったという。
そしてこのまま、無意識のうちに死んでしまいそうな喪失感をなんとかしたいと、改めて主治医に相談し、治療のプランを練り直した。

それまでFさんは、急死した父親の葬儀を出したり、弟の病気の世話をしたり、時折実家にお母さんの顔を見に行っていた。
家族に少しでも尽くしたいと努力を重ねていたのだ。

ある寒い冬、Fさんは、冷え性のお母さんのために、暖かい素材のスウェットパンツを用意し、実家を訪ねた。
お母さんにスウェットをわたし、掃除をして帰ってきた。
喜んでもらえると思っていた。

一ヶ月ほど経ち、再び暖かい衣類を持って訪ねたところ、お母さんはこう言った。
「いらないわよ。あんたが持ってくる物ったら、股上が短くて寒いったらありゃしない」

Fさんは、せっかくお母さんに用意したパンツが、気に入ってもらえなかったことに寂しい気持ちになった。
そして、持って行った衣類を持って帰ってきた。

Fさんが用意した衣類は、そこそこ良い品物で、非常に暖かいと中年以上のご婦人に人気の商品だった。
当然股上も深く作ってあった。

Fさんは、ちっとも悪くない。

どちらかと言えば、Fさんの真心の品を履くことができない、大きなお尻をしているお母さんの体型に問題があると言わざるを得ない。

しかし、この親子関係は、真心を尽くした娘を悪者にして、母親が踏ん反り返っている。
母親は、ありがとうすら言わない。

そんな環境で育ったFさんは自分が悪いと思ってしまっており、お礼すら言わないお母さんを、おかしいとも思っていなかった。
そして、お母さんの心無い言葉に傷ついている自分を悪者にしていた。

完璧な、機能不全親子であった。

Fさんは、日常、うまくいかないことの多くをすべて自分の責任と思い込み、自分を責めながら生きていた。
話を聞くと、Fさんが悪いことなど、これっぽっちもなかった。

小さい頃から、お前は悪い子だと言われて育ったため、自己肯定感がほとんど育っていなかった。
Fさんは、自己肯定感を高めるための治療を受け、自身を育てあげた。

そして最近、スウェットパンツの話を思い出し、小声でつぶやいたそうだ。

「ちょっと、あんた、せっかく持って行ってあげたのに、ありがとうくらい言いなさいよ!パンツの股上が短いんじゃなくて、あんたがデブなだけでしょう!」

そう思って吹き出したFさんは、一ヶ月ほど前から頻繁に来ていた母親からの連絡を一笑した。

「ねえ、プリンタが壊れたみたいなの、修理に出した方が良いかしら」

FさんがSEだから、お母さんはなんでもしてくれると思っているようだ。
でも、Fさんはプリンタ屋でも電気屋でもない。

あなたは、このお母さんの問いかけがおかしいとは思いませんか?

もし、壊れたプリンタを使いたかったら、そのまま放置していては、永久に使えるようにはならない。
そんなことはちょっと考えればわかることで、いちいちFさんが登場しなくても済むことだ。

でも、もし大人のコミュニケーションが成立する関係だったら、、。
「ねえ、プリンタが動かなくなってしまったの。時間があったら見に来てもらえないかしら?」とか、どうやって修理手配したら良いかをたずねることだろう。

成長したFさんは、もうご機嫌伺いはせず、言いっ放しのお母さんを放っておいた。

お母さんは、一ヶ月半くらい、プリンタが動かない、とあの手この手で連絡をしてきたそうだが、見に来てほしいとか、どうしたら良いか教えてほしいとは一言も言わなかった。

Fさんは、このことをきっかけに、それまでFさんの周りにあった人間関係の多くが、Fさんに寄りかかってくるものであったことに気がついた。

Fさんの子供がこう言った。
「お母さん、みんなに利用されているの気付かなかったの?」

これには苦笑する以外なかったそうだが、今後の人生は、堅実な信頼関係を築くことを心がけてゆきたいと言っていた。

長い長い呪縛の日々を、何年過ごしてきたことだろう。

毒親育ちの子供達は、少なくとも成人するまでは呪縛浸りの生活を強いられる。
大人になって生きにくさを感じ、治療を受けるチャンスを得た人たちは、必死で呪縛を振りほどこうと果敢な挑戦を始める。

意欲があればあるほど、その挑戦によって勝ち取る人間性は頼もしく、水を得た魚のように生き生きし始める。
その過程で、人間関係が一掃され始める。
周囲にいた、ぶら下がっていた人たちがことごとく消えてゆくのである。



友情ではなく、依存関係で繋がっていたひと達が居心地が悪くなり、離れてゆくのだ。
小さな摩擦を生じることもあるし、さみしく感じることもある。
しかし、喜ぶべきことである。

本音が言えず、NOと言えない毒親育ちの子供達は、人から便利がられ、ぶらさがられることが多々ある。
それは、見た目は友情に見えてまったく異なるもので、知らず知らずのうちに心を疲弊させるものである。
自身の心を食いつぶす人間が消えてゆくのだ。

喜ばしいことである。

そして離れてゆく人間は、次第に距離が近い人間へと移り変わる。
横綱は、毒親である。

毒親は、自分の子供が人間性を喪失する極みで、のたうちまわって苦しんだことを知らない。
そして、意のままに、言葉一つで子供が動くものと勘違いしている場合も多々ある。

しかし、異常な親は切り捨てて良い。

親の異常さゆえ、子供は何十年も苦しみ抜くのだ。
そこに割かれる不毛な時間と精神を、毒親は子供に返すことはできない。

子供を健全に育てられない毒親は、悪と断言しても良い。
日本は血のつながりを尊ぶ傾向があるが、人は血がつながっていなくても麗しい人間関係を築く力があるのだ。
だから毒親育ちの子供達を、もっと楽にしてあげて欲しい。

ひどい親は切り捨てて良い。

逮捕される親は氷山の一角で、同等の仕打ちをしても捕まらない親の方がはるかに多い。
そんな悪から、子供は救われるべきである。

毒親育ちの子供達は、親を切り捨てることに罪悪を感じ、自身を責めるが、ひどい仕打ちをした人間を親だからといって許さなくても良いのである。
今度こそ、一番重たかった親を振りほどいて、飛び立って良いのである。
そして、健全さを勝ち取ったなら、自身の手で、自由な心をしっかり守って生きて欲しいと思うのである。
カウンセラーの恵美子先生に、改めて怒り(いかり)について教えていただいた。

適切な時に、適切に怒らなくてはいけないそうだ。
心を乱さず、怒ることなく、腹が立っても大人の振る舞いで、冷静に感情を処理することがまるで美徳のように言われるが。

本当に健全な人は、心の中に「大人の自分」と、「子供の自分」が同居していて、とても仲が良い。
言い換えると、「本音」と「建前」のバランスが良いというわけだ。



例えば、何か理不尽な状況に遭遇したとしよう。
そんな時、「子供の自分」はその理不尽さに腹を立て、イヤだイヤだと駄々をこねる。

「大人の自分」は、駄々っ子の「子供の自分」を可愛いヤツだと思いつつ、「子供の自分」がイヤだと感じる気持ちに寄り添う。
「子供の自分ちゃん、イヤだよねー、そんな話、理不尽だよねー、あなたは正しいよ」ってな具合だ。

「子供の自分」ちゃんは、「大人の自分」さんに理解してもらえたことに安心する。
わかってもらえたことで、気持ちが収まる。
そこで「大人の自分」さんは、その理不尽さに対し最善の対処を行う。

決して本音を押し殺しているわけでなく、自分を偽っているわけでもない。
心の中の「子供の自分」ちゃんには、思い切り本音を吐き出してもらえば良いのだ。

この心の仕組みは、自然にできあがるのではない。
この世に生まれ落ちた時から、赤ちゃんは自分の中の心の仕組みを作り始めるのだ。

仕組み作りの第一歩が、「おぎゃー」だ。

「おぎゃー」は最も本然的な怒りであると恵美子先生は言う。
それは
「お腹が空いたよー!!」であったり
「お尻がかゆいよー!!」の時もある。

生まれたばかりの赤ちゃんにとっての唯一の自己主張の機会が「おぎゃー」と泣くことだ。
お母さんの手がふさがっていて、すぐに抱き上げてあげなければ、赤ちゃんは真っ赤を通り越し、紫色になって力の限り泣き叫ぶ。

「おんぎゃーーーー、んぎゃー、んぎゃー、ほんぎゃああああああああああひっくひっく」
見ているだけで息が止まりそうになる。
遠慮などする赤ちゃんなど、どこにもいない。

しかし、お母さんのタイプは大きくわけて三つ。

赤ちゃんに興味のあるお母さんは、赤ちゃんが泣く原因を取り除こうとする。
赤ちゃんが嫌いなお母さんは、イライラして一緒に泣いてしまうかもしれない。
赤ちゃんに無関心なお母さんは、そのまま放置する。
1. のお母さんに育てられた赤ちゃんは、健全に心の仕組みを作り上げることができる。
2. のお母さんの赤ちゃんは、お母さんの顔色を伺うようになり、早い段階から「大人の自分」さんに心が支配される。
3. のお母さんの赤ちゃんは、サイレントベビーになり、自己主張をしない人間に育つ。

2. の場合も 3. の場合も、どちらも心を病む。
その場合、丁寧に心の傷の手当てをした後、しっかりと怒れるような練習を行う。
心に浮かんできた感情を止めないようにし、感じた気持ちに手を当てて、しっかりと怒るのだ。

M子さんは心の中で、とても乱暴な気持ちがわき上がることがある。
人とすれ違った時、気づいたら小声で
「ばーか!」
「あーほ!」
「デブ!」
「ハゲ!」
「どけよ!邪魔なんだよ!」
「ざけんなよ!クソガキ!」
などなど。

M子さんはイライラすると、時々こんな気持ちになっていたそうだが、そんな心の汚い自分はイヤだと、自己嫌悪の材料にしていたそうだ。
そして、恵美子先生からしっかり怒ることを教わり、思ったまま、感じたままに、バカだのデブだのつぶやき続けるようになった。
毎日、毎日、繰り返しつぶやき続けた。

するとある時、つぶやいている自分が滑稽に思え、クスッと笑っていた。
そしてまたある時、太った人とすれ違っても、「デブ!」と言わなくなっていた。

もう周りなど、どうでもよくなってきたそうだ。
そんなことより、自分に関心が向いてきて、人のために無駄な時間を使わなくなった。

そうなのだ。
他人ほど無責任な存在に、振り回される必要がないことを、身をもって実感できたのだ。
どこかへ押しやられていた自我が、しっかりと自身の中央に腰をすえ、自分の人生の主役である自覚ができたのだ。

人は、人生のはじめに、しっかり怒ることが大事。
健全に怒って、どんなに年をとっても、自分を押し殺すことが無いよう、「子供の自分」ちゃんには無邪気なまま、心の大地で自由に飛び跳ねてもらおう。
コツコツと丁寧に治療を続けて行くと、ある時ふと我に返ったような時を迎える。

目の前の霧が晴れて、全身にまとわりついていたスライムが、剥がれ落ちるように体が軽くなる。

前よりも、力を入れないで前に進めるようになる。
少しずつ歩みを早め、人生を取り返すように、スピードをつけて進み始める。

その時の心境は、玉手箱を開けた浦島太郎の心境のようだと聞いた。



木の葉は緑色に見え、土はひんやり冷たく。
空気は清々しい。

「こんなに普通な何もかもが、全然普通に見えていなかった」ことに気がつく。
長かった。
苦しかった。
出口が見えなかった。

まるで、幾つもの壁を、バリバリとぶち破ってここまで来たようだと。

体当たりをしている最中は、必死で周りが目に入らない。
痛みも伴う。
全力なので、ぶち当たるたびに、グッタリ疲れる、、そんな感想を聞かせてもらった。

そうかと、赤ちゃんの姿を思いだした。

赤ちゃんは、力の限り泣き叫びながら、生まれた時から、壁をふち抜く勢いがある。
目には見えないが、きっとそれは成長の段階に登場する壁なのだろう。

力一杯、壁に体当たりし、ぶち破った分だけ成長を勝ち取る。
勝ち取りながら、人としてのたくましさと、誇りを身につける。
養育者がしっかり見守ることで、赤ちゃんは壁を何枚もぶち破りながら、成長をしてゆく。
壁は、だんだん分厚くなるけれど、地道に積み重ねてきた力が、分厚くなる壁をぶち破って行く。

心を病む子供は、壁をぶち破ろうとする途上で、なんらかの不都合により、その課題を保留している。
ぶち破っていない壁は、どんどん溜まって行き、ある時ドミノのように倒れ始める。

心が折れる瞬間、ドミノが倒れる。

重い、痛い、苦しい、、。

その苦痛は、ぶち破るべき壁があることを教えている。

お母さんは、そばにいてくれなかった。
心を病む子供の心の中には、優しいお母さんの姿はない。
その事実は、心の中に無限の空虚感を育てる。
そして、空虚感を抱いた大きさよりも想像を絶する大きな怒りを、心のツボに落とし込むことを忘れないでほしい。

この大きな怒りは、すべての希望や、意欲をズタズタに引き裂く力を持つ。
お母さんに見ていて欲しかった。
どうして僕の心に、留まってくれないのか!
どうしてなんだ!

その嵐のような怒りは、時に自身を地獄へ落とす力ともなれば、他人を地獄に落とす力ともなる。
その怒りを、一刻も早く解決し、心の傷が癒えはじめたら、やっと課題であった壁をぶち破る作業が始まる。

破ることのできなかった成長の壁を破り尽くした時、浦島太郎のような心境を初めて味わうことができる。
これは、再生のプロセスだ。

少年法の刑罰が厳しくなっても、加害者は減らない。
なぜなら、再生のチャンスを与えていないからだ。

加害者の心が、メチャメチャに壊れていることを、直視していないからだ。
心が健全な人間は、決して痛ましい傷害事件の加害者になることはないのだ。
病は、感染症は別として、ある日突然発症するというより、日々の積み重ねから発症するものが多いと思われる。

もっともわかりやすい例をあげると、生活習慣病がそれである。
日常の生活習慣が原因となって発症するから、生活習慣病と言い、これらの病気は、生活習慣を改善することにより快方に向かうものが多い。



心の病は、ある日突然ウィルスに感染し、発症すると言うものはほぼない。
では、その原因は?
そう、心の病の原因こそ生活習慣なのである。

心の病は、心の生活習慣がもたらしたものと考えて良い。
認知行動療法などは、その心の生活習慣を変える治療法と言える。

人は、その人生の歴史を刻んで行くたびに、たくさんのことを学習する。
学習した事柄は、生活習慣となって日々の生活に定着してゆく。

例えば、

日本人は箸を使って食事をする。
箸は多くの場合、右手で持つものと教えられる。
左利きの人も、無理に右に持つようしつけられる場合もある。
機能的に左の方が便利に使えても、作法として「箸は右で持つもの」という価値観があるからだ。

文化としての作法は、大切な場合もあるが、家族の中でしか通用しないようなルールを持って生活している人もいる。
そういった場合は、自分にとっての当たり前が、他人にとってはどうでも良いことになる。

数年前に結婚した友人から、夫婦喧嘩をしたと電話がかかてきたことがある。
理由を聞いたところ、牛乳を冷蔵庫にしまう方法の違いで大喧嘩をしたというのだ。

二人とも几帳面な性格をしており、それぞれのしまい方が許せなかったそうだ。
たかが牛乳のしまい方と思うかもしれないが、この問題は二人にとって、重要な話題だったはずだ。

誰もが日常「こうであらねばならない」という暗黙のルールを持っている。
それは守られれば心地よいものかもしれないが、時には自分自身の足かせになる場合もある。

実は、心を病む人ほど、たくさんのルールの中で生活している場合が多い。

何度も記事に書いたが、心を病む人はお母さんとの人間関係に問題があるケースが圧倒的に多い。
お母さんとの人間関係に問題がある場合、その日常生活は非常に緊張したものとなる。

子供にとって、気持ちを許してリラックスして生活することは難しい。
お母さんから、柔軟な社会性を学びとることができないため、経験した様々なことを様々なルールに当てはめ、自分の身を守る術とする。

簡単に言えば、お母さんから人生のマニュアルをもらえない分、自分でマニュアルを作りながら生きていると言える。

マニュアルを作りながら生きているため、常に日常が緊張している。
緊張しているため、広い視野を持てない。
従って、生きる世界が狭くなる。

これを繰り返しながら、何年も生きた結果、固定観念に凝り固まった自己が形成される。
その自己の中心にいる自分の自己評価は圧倒的に低い。
そして、自分の作った固定観念の堅苦しい世界の中で、奴隷のように生きる自分に気付かなくなっている。

平たく言うと、偏った、くそまじめな自己を気付かぬうちに作っているのである。

だから、マニュアルからはずれたことには適応できにくく、成長するに従って広がる社会に対し、過度なストレスを感じるようになる。

能力のあるカウンセラーは、こんなクライアントに対し、本人に絶対できないことをやってみるよう課題を与える。

例えば、几帳面すぎる親子には、部屋中に新聞紙をビリビリに破いて撒き散らし、片付けないでその上に布団を敷いて寝るよう課題を与えた。

また、食事にこだわりのあるお母さんには、三度の食事は「ふりかけご飯」だけ (おかずは一切作っちゃダメ) を食べることを課題にした。

どちらも、やろうと思えば簡単にできることである。
法律を犯すわけではないし、誰が困るわけでもない。

当事者だけが、違和感を感じることなのである。

これは実際にあった話であるが、いずれのケースも、課題を実行するのに時間がかかったそうだ。
しかし、実行できた時、そのあっけなさに気が抜けたと言う。

なぜ、こんな簡単なことができなかったのか。
そうか、自分は、自分で思い込んでいる様々な既成概念に縛られて生きているのかと。
自分を苦しみに縛り付けているのは自分なのだと、気付いたのである。

これが、心の生活習慣である。

心の病が快方に向かうには、このような既成概念をぶち破る心の変化が重要なのである。