欲しくて産んだのではなく、産まれてしまったと言う。
避妊も考えたが、お金がなかったそうだ。
特に友達がいるわけではなく、夫の監視が厳しかったので、外出はほとんどせず、普段は自営の夫の仕事を手伝っていた。
実家が近かったが、親にはあまり甘えることができなかった。
子供たちは聞き分けが悪く、イライラすることがよくあった。
いけないとわかっていても、つい手が出たり、頻繁に怒鳴っていた。
一番上の子は、時々実家にあずけ、4 才から保育園に入れた。
二番目、三番目は年子だったが、二番目の子はあまり手がかからなかったので、寝かせっぱなしにした。
三番目の子が動くようになったとき、末っ子妊娠したため、三番目は少しおんぶをした。
末っ子が生まれてからは、二番目、三番目がいたずら盛りのため、末っ子だけ仕方なくおんぶをして育てた。

小さいうちからおんぶをしたのは、末っ子が初めてだった。
すると末っ子は、 T さんの耳元で言葉にならないうちから、話しかけるようになった。
そんな経験を上の 3 人の子とはしてこなかったため、T さんは初めて赤ちゃんが可愛いと心から思った。
可愛いと思って接するから、赤ちゃんもますます可愛くお母さんに話しかけるようになる。
T さんの母性本能は、末っ子にどんどん刺激され目覚めて行った。
上の子 3 人は、よく交代で病気をし、そのたびに T さんの手を煩わせた。
4 人の子供がそれぞれ違うことを要求し、行動するため、T さんはいつもイライラした。
とにかく上の子 3 人は手がかかるし、うっとうしい。
可愛いと思えるのは末っ子だけである。
なんでこんなに違うのだろう。
何で末っ子だけこんなに可愛いんだろう。
答えは、末っ子はおんぷして育てたからだ。
おんぷは常に体のどこかが密着し、子供の体温や息遣いまで感じることができる。
しかし、感じるのは体温や息遣いだけではない。
健康状態や、機嫌まで、言葉にしなくてもいろいろな情報が伝わってくるのだ。
お母さんとの距離が近いと、子供は色々なサインをお母さんに発する。
そして、お母さんの母性本能がより発揮されるような働きかけをするのである。
そのリズムがうまく合致すると、心身共に安定した子育てが実現する。
しかし、親が同じでも、二番目の子は一日中ずっと寝かされっぱなしだったため、サイレントベビーになってしまった。
いくら末っ子と良好な関係が築けても、別の子にはその関係が自動的には反映されない。
あくまでも子育てにおける人間関係は、それぞれの子供と一対一で築かれるもので、子供の数だけお母さんには努力が必要となる。
子供の数が多ければ、その数だけ人間関係を築く努力が必要になる。
長い年月が経過し、T さんの子供たちはそれぞれ大人として十分な年齢を重ねた。
しかし、上の 3 人の子供たちは精神疾患と診断され、治療を継続して受けている。
3 人は社会への適応能力が低く、体力も弱い。
関連は定かではないが、3 人とも社会で挫折し、十分な収入を得ることができていない。
末っ子はと言うと、医療系の仕事に就き、収入の安定した伴侶と子宝に恵まれている。
抱っこやおんぶは、親の都合でするものではない。
子供をかわいがるための、一つの重要なスキンシップである。
子供を抱きしめた分、お母さんは母性本能が刺激され、刺激をもらった子供に対し、お母さんらしくなる。
したがって、抱きしめていない子供に対しては、お母さんらしくなれないのだ。
抱きしめて育てた子供には、その子の気配でお母さんらしさのスイッチが入り、本能で母親らしい振る舞いができる。
T さんを遠目に見ていると、末っ子に対してはお母さんらしく、末っ子の子に対しては優しいおばあちゃんなのに、上の 3 人の子については、初心者のように感性が鈍い。
恐らくこの差を T さん自身自覚していないと思われる。
どんな状況であれ、子供をこの世に送り出した責任は重い。
命を世に送り出すと言うことは、子供の数だけ、社会に果たす責任の数が多いと言うことだ。
省略など許されるはずはないのだ。
子供をもうけるには、それだけの責任を果たす能力が必要である。
能力が無いのに、子供を作ってはいけない。
絶対にいけないのだ。
子供を不幸にする親は、どんなに社会的地位があっても、金銭的に恵まれていても、幸福になることは絶対にない。
T さんは、なぜ上の子 3 人が今もなお、重篤な状態から抜けられないのか、理解できない。
T さんには上の子 3 人の悲痛な叫びがまだ聴こえない。
母として、なんと不幸なことであろう。