台風一過、のはずなんですが、なんともすっきりしない天気。それは梅雨だからなのでしょうか。筑波嶺は幸い大した雨量ではありませんでしたが、冠水は土砂崩れに見舞われた地域もあって、復旧作業が大変そうです。画像は私の過去アーカイブより、佐渡島の宿根木にある「三角家」。集落の民家は千石船の廃材や造船の際の余材を再利用しており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
昨日に続いて春季アニメの感想を続けたいところなのですが、なお最後まで見切っていない作品が残っているので、本日は特別史跡めぐりの話を。ちなみに日本の特別史跡は64件、特別名勝は36件あるところ、私がこれまでに訪ねたことがあるのは特別史跡23件、特別名勝27件です。観光名所としても著名なものが多い特別名勝は全体の3/4(75%)と結構訪れていましたが、特別史跡は1/3強(36%)と少なめ。史跡は地味なものが多いので、ついででもないと行かないよなという場所も多いのですが、せめて近場だけでもということで、石岡の常陸国国分寺跡と同国分尼寺跡を訪れてきました。どちらもJR石岡駅から歩いて行ける距離にあります。
まずは常陸国国分寺跡。看板は中門址という石碑の横にありました。国分寺と国分尼寺は奈良時代に聖武天皇の詔により各地に建立されましたが、ここの場合は後継寺院が今も同じ敷地に建っています。平将門の乱で焼失した他、戦国時代にも焼失しており、以後衰微して無住の状態でしたが、江戸時代に近隣の寺(千手院)の住職が国分寺住職を兼務し、大正時代に現在の国分寺が成立したそうです。
国分寺境内。当時は東西約270メートル・南北約240メートルの敷地に、中門・金堂・講堂が一直線に配置されていたそうです。各地の国分寺には七重塔が建立されたそうですが、ここの七重塔は位置が明らかになっていないようです。五重塔は各地に残っていますが、七重塔は現物をみたことがありません。
弘法大師堂。現在の国分寺は真言宗智山派の寺院。先日に画像を紹介した智積院が総本山ですね。〇〇宗××派というのは多数あって、門外漢にはその相違が判りませんが、太閤と言えば豊臣秀吉、黄門と言えば水戸黄門(徳川光圀)であるのと同様に、大師と言えば弘法大師空海という感じがします。
薬師堂。国分寺跡の金堂が建っていた位置に立てられています。今の建物も悪くはありませんが、きっと当時の金堂はもっと壮大だったことでしょう。
本堂。千手院から移築した本堂が建っていましたが、焼失したために筑波四面薬師の一つを移築したものだそうです。筑波四面薬師は筑波山の麓にある筑波山大御堂(中禅寺)を守護するためにその東西南北に安置した薬師如来像のことで、それぞれ祀る寺院がありました。本堂をどの寺院から移築したのか不明ですが、北面の薬師(山寺薬師)は廃寺になっているのでそこなのかも。
都々一坊扇歌堂。都々逸節の創作者である都々逸坊扇歌が嘉永5(1852)年に府中(石岡)で没したことを記念として昭和8(1933)年に建立されたお堂です。都々逸というのは“立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は 百合の花”とか“人の恋路を 邪魔する奴は 馬に蹴られて 死んじまえ”というようなやつですね。現在の常陸太田市で生れ、江戸に出て寄席芸人として活躍し、50前に亡くなったそうです。常陸国国分寺は今も寺院として生きていますが、もちろん全ての建物は往時のものではありません。
続いて国分尼寺跡へ。国分寺跡から北西に約600メートルほど離れています。隣同士で建てたらいいのにと思いますが、僧侶取っても男女が近いのはいかんのでしょうか。小学校の北の草地が国分寺尼寺跡。広々となにもないですね。やはり戦国時代に兵火に遭って焼失してしまったそうです。
回廊跡。中門を起点として金堂を取り囲み、そのまま後方の講堂へと取り付けられていたそうです。今は石畳になっていますが、おそらくこれは史跡として整備した時に作ったんのでしょう。
国分尼寺金堂跡。一段高くなっていて、場所がはっきりわかります。金堂の代わりに木が立っています。
北方建物群跡。尼僧達の住居となっていた建物があったのでしょうか。常陸国国分寺跡と同国分尼寺跡は、併せて一つの特別史跡ではなく、それぞれ一つの特別史跡となっています。つまりこれで二か所の特別史跡を訪れたことに。これはお得(?)です。
石岡市はかつて常陸国の国府があった場所。なので国分寺や国分尼寺があった訳ですが、せっかく来たので他にも見て回ることにしましょう。まず見つけたのが常陸国青屋神社。かつて国司が常陸国に着任すると、常陸国一宮である鹿島神宮に参拝するのが習わしだったそうです。霞ヶ浦を船で渡っていくのですが、荒天で出航不能の時はススキ,マコモ,ヨシなどで青屋(仮屋)を造って遥拝することによって参拝に代えたのだそうです。保元の乱(1156年)以降は航路が断絶されてしまい、この地で遙拝することが習わしになったのだとか。そうか、鹿島神宮…茨城に住んでてもまだ訪れたことがありません。一度行かないといけませんね。でも県内とはいえ結構行くのは面倒なんですよね…
石岡の陣屋門。石岡はかつて常陸国の国府があったため府中と呼ばれ、江戸時代には水戸徳川家の分家(石岡松平家)が常陸府中藩として治めていました。2万石の小藩だったため城はなく、代わりに陣屋がありました。この陣屋門は文政11(1828)年に江戸の藩邸が焼失し、再建した際の余材を運び込んで建築されたとか。太平洋戦争での焼失を免れた、市内に残る数少ない藩政時代の遺構です。かつては小学校の校門として使われていたとか。
常陸国国府跡。現在は小学校の敷地になっています。特別史跡じゃないけど国指定の史跡になっています。
常陸国府跡の石碑。常陸国は律令制における等級区分では、国力が一番高い大国とされ、平安初期には 上総国、上野国と並んで、国守に必ず親王が補任される親王任国となりました。国守となった親王は「太守」と称しましたが、実際には赴任することはなく(遙任)、実質的長官は次官の「介」でした。そういえば織田信長も上総介を名乗ってましたね。一時期上総守を名乗ってましたが、親王任国であることを知って改めたのかも。
国府跡の石碑のそばにある風間阿弥陀。砂岩でできた五輪塔で、とても阿弥陀如来像には見えません。現在の筑西市にあった小栗城が落城した際に、小栗氏の家臣であった風間氏が城内にあったこれを持って落ち延びてきたのだとか。
常陸総社宮の石碑。総社とは、特定地域(多くは令制国)内の神社の祭神を集めて祀った(合祀)神社のことです。律令時代、国司の着任後の最初の仕事は、赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することでしたが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたのだそうです。つまり常陸国の場合、鹿島神宮まで舟で行っていた時代→青屋神社から鹿島神宮を遙拝した時代→国府のそばの総社を参詣した時代と移り変わっていったのでしょうか。
総社宮の大鳥居。鬱蒼とした樹木がいかにも神域といった雰囲気です。総社と一宮はどっちがエラいのか?なんて下世話なことを思ったりもしますが、常陸国総社宮は旧社格は県社。対して鹿島神宮の旧社格は官幣大社。しかも歴代天皇が元旦に行う四方拝の際に拝する八つの神社(伊勢神宮、氷川神社、上賀茂神社、下鴨神社、石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮)の一つなので、これはもう比べものになりません。
境内摂社群。一番手前は稲荷神社、その次は星宮神社、その向こうは愛宕神社、厳島神社。さらに愛染神社、松尾神社と続いています。別の場所には常陸国内の国司が参拝すべき神社を集めた十二末社もありますがが、撮り忘れてしまいました(汗)。
総社宮拝殿。イザナギノミコト、オオクニヌシノミコト、スサノオノミコトなど六柱の神を祭神としています。創建当初(社伝では奈良時代の天平年間)は国分尼寺付近にあったそうですが、およそ200年後に現在の地に遷したとか。現在の拝殿は昭和60(1985)年に新造されたもので、以前の拝殿は昭和39(1964)年に参拝者の失火により焼失してしまったそうです。
拝殿を横から。右手の拝殿の奥にあるのが本殿です。寛永4(1627)年に時の領主の命で建造された境内で最古かつ最重要の建造物です。平成28(2016)年に大規模な修復工事がされたせいで真新しく見えます。
拝殿の左手。渡り廊下で神楽殿とつながっています。昭和60(1985)年の拝殿再建時に新造されたそうです。
随身門。本殿と同じ寛永4(1627)年に造営された境内最古の建造物の一つです。門内には石岡市指定文化財の「随神像」一対が置かれています。
境内にはヤマトタケルが東征の際に腰掛けたとされる腰掛石があります。総社宮を造営する際にこの地を選んだ決め手になったのはこの腰掛石があったからだそうです。なおヤマトタケルは「常陸国風土記」では“倭武天皇”と記されています。






















































































































