台風一過、のはずなんですが、なんともすっきりしない天気。それは梅雨だからなのでしょうか。筑波嶺は幸い大した雨量ではありませんでしたが、冠水は土砂崩れに見舞われた地域もあって、復旧作業が大変そうです。画像は私の過去アーカイブより、佐渡島の宿根木にある「三角家」。集落の民家は千石船の廃材や造船の際の余材を再利用しており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。



 

 昨日に続いて春季アニメの感想を続けたいところなのですが、なお最後まで見切っていない作品が残っているので、本日は特別史跡めぐりの話を。ちなみに日本の特別史跡は64件、特別名勝は36件あるところ、私がこれまでに訪ねたことがあるのは特別史跡23件、特別名勝27件です。観光名所としても著名なものが多い特別名勝は全体の3/4(75%)と結構訪れていましたが、特別史跡は1/3強(36%)と少なめ。史跡は地味なものが多いので、ついででもないと行かないよなという場所も多いのですが、せめて近場だけでもということで、石岡の常陸国国分寺跡と同国分尼寺跡を訪れてきました。どちらもJR石岡駅から歩いて行ける距離にあります。



 

 まずは常陸国国分寺跡。看板は中門址という石碑の横にありました。国分寺と国分尼寺は奈良時代に聖武天皇の詔により各地に建立されましたが、ここの場合は後継寺院が今も同じ敷地に建っています。平将門の乱で焼失した他、戦国時代にも焼失しており、以後衰微して無住の状態でしたが、江戸時代に近隣の寺(千手院)の住職が国分寺住職を兼務し、大正時代に現在の国分寺が成立したそうです。



 

 国分寺境内。当時は東西約270メートル・南北約240メートルの敷地に、中門・金堂・講堂が一直線に配置されていたそうです。各地の国分寺には七重塔が建立されたそうですが、ここの七重塔は位置が明らかになっていないようです。五重塔は各地に残っていますが、七重塔は現物をみたことがありません。



 

 弘法大師堂。現在の国分寺は真言宗智山派の寺院。先日に画像を紹介した智積院が総本山ですね。〇〇宗××派というのは多数あって、門外漢にはその相違が判りませんが、太閤と言えば豊臣秀吉、黄門と言えば水戸黄門(徳川光圀)であるのと同様に、大師と言えば弘法大師空海という感じがします。



 

 薬師堂。国分寺跡の金堂が建っていた位置に立てられています。今の建物も悪くはありませんが、きっと当時の金堂はもっと壮大だったことでしょう。



 

 本堂。千手院から移築した本堂が建っていましたが、焼失したために筑波四面薬師の一つを移築したものだそうです。筑波四面薬師は筑波山の麓にある筑波山大御堂(中禅寺)を守護するためにその東西南北に安置した薬師如来像のことで、それぞれ祀る寺院がありました。本堂をどの寺院から移築したのか不明ですが、北面の薬師(山寺薬師)は廃寺になっているのでそこなのかも。



 

 都々一坊扇歌堂。都々逸節の創作者である都々逸坊扇歌が嘉永5(1852)年に府中(石岡)で没したことを記念として昭和8(1933)年に建立されたお堂です。都々逸というのは“立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は 百合の花”とか“人の恋路を 邪魔する奴は 馬に蹴られて 死んじまえ”というようなやつですね。現在の常陸太田市で生れ、江戸に出て寄席芸人として活躍し、50前に亡くなったそうです。常陸国国分寺は今も寺院として生きていますが、もちろん全ての建物は往時のものではありません。



 

 続いて国分尼寺跡へ。国分寺跡から北西に約600メートルほど離れています。隣同士で建てたらいいのにと思いますが、僧侶取っても男女が近いのはいかんのでしょうか。小学校の北の草地が国分寺尼寺跡。広々となにもないですね。やはり戦国時代に兵火に遭って焼失してしまったそうです。



 

 回廊跡。中門を起点として金堂を取り囲み、そのまま後方の講堂へと取り付けられていたそうです。今は石畳になっていますが、おそらくこれは史跡として整備した時に作ったんのでしょう。



 

 国分尼寺金堂跡。一段高くなっていて、場所がはっきりわかります。金堂の代わりに木が立っています。



 

 北方建物群跡。尼僧達の住居となっていた建物があったのでしょうか。常陸国国分寺跡と同国分尼寺跡は、併せて一つの特別史跡ではなく、それぞれ一つの特別史跡となっています。つまりこれで二か所の特別史跡を訪れたことに。これはお得(?)です。



 

 石岡市はかつて常陸国の国府があった場所。なので国分寺や国分尼寺があった訳ですが、せっかく来たので他にも見て回ることにしましょう。まず見つけたのが常陸国青屋神社。かつて国司が常陸国に着任すると、常陸国一宮である鹿島神宮に参拝するのが習わしだったそうです。霞ヶ浦を船で渡っていくのですが、荒天で出航不能の時はススキ,マコモ,ヨシなどで青屋(仮屋)を造って遥拝することによって参拝に代えたのだそうです。保元の乱(1156年)以降は航路が断絶されてしまい、この地で遙拝することが習わしになったのだとか。そうか、鹿島神宮…茨城に住んでてもまだ訪れたことがありません。一度行かないといけませんね。でも県内とはいえ結構行くのは面倒なんですよね…



 

 石岡の陣屋門。石岡はかつて常陸国の国府があったため府中と呼ばれ、江戸時代には水戸徳川家の分家(石岡松平家)が常陸府中藩として治めていました。2万石の小藩だったため城はなく、代わりに陣屋がありました。この陣屋門は文政11(1828)年に江戸の藩邸が焼失し、再建した際の余材を運び込んで建築されたとか。太平洋戦争での焼失を免れた、市内に残る数少ない藩政時代の遺構です。かつては小学校の校門として使われていたとか。



 

 常陸国国府跡。現在は小学校の敷地になっています。特別史跡じゃないけど国指定の史跡になっています。



 

 常陸国府跡の石碑。常陸国は律令制における等級区分では、国力が一番高い大国とされ、平安初期には 上総国、上野国と並んで、国守に必ず親王が補任される親王任国となりました。国守となった親王は「太守」と称しましたが、実際には赴任することはなく(遙任)、実質的長官は次官の「介」でした。そういえば織田信長も上総介を名乗ってましたね。一時期上総守を名乗ってましたが、親王任国であることを知って改めたのかも。



 

 国府跡の石碑のそばにある風間阿弥陀。砂岩でできた五輪塔で、とても阿弥陀如来像には見えません。現在の筑西市にあった小栗城が落城した際に、小栗氏の家臣であった風間氏が城内にあったこれを持って落ち延びてきたのだとか。



 

 常陸総社宮の石碑。総社とは、特定地域(多くは令制国)内の神社の祭神を集めて祀った(合祀)神社のことです。律令時代、国司の着任後の最初の仕事は、赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することでしたが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたのだそうです。つまり常陸国の場合、鹿島神宮まで舟で行っていた時代→青屋神社から鹿島神宮を遙拝した時代→国府のそばの総社を参詣した時代と移り変わっていったのでしょうか。



 

 総社宮の大鳥居。鬱蒼とした樹木がいかにも神域といった雰囲気です。総社と一宮はどっちがエラいのか?なんて下世話なことを思ったりもしますが、常陸国総社宮は旧社格は県社。対して鹿島神宮の旧社格は官幣大社。しかも歴代天皇が元旦に行う四方拝の際に拝する八つの神社(伊勢神宮、氷川神社、上賀茂神社、下鴨神社、石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮)の一つなので、これはもう比べものになりません。



 

 境内摂社群。一番手前は稲荷神社、その次は星宮神社、その向こうは愛宕神社、厳島神社。さらに愛染神社、松尾神社と続いています。別の場所には常陸国内の国司が参拝すべき神社を集めた十二末社もありますがが、撮り忘れてしまいました(汗)。



 

 総社宮拝殿。イザナギノミコト、オオクニヌシノミコト、スサノオノミコトなど六柱の神を祭神としています。創建当初(社伝では奈良時代の天平年間)は国分尼寺付近にあったそうですが、およそ200年後に現在の地に遷したとか。現在の拝殿は昭和60(1985)年に新造されたもので、以前の拝殿は昭和39(1964)年に参拝者の失火により焼失してしまったそうです。



 

 拝殿を横から。右手の拝殿の奥にあるのが本殿です。寛永4(1627)年に時の領主の命で建造された境内で最古かつ最重要の建造物です。平成28(2016)年に大規模な修復工事がされたせいで真新しく見えます。



 

 拝殿の左手。渡り廊下で神楽殿とつながっています。昭和60(1985)年の拝殿再建時に新造されたそうです。



 

 随身門。本殿と同じ寛永4(1627)年に造営された境内最古の建造物の一つです。門内には石岡市指定文化財の「随神像」一対が置かれています。



 

 境内にはヤマトタケルが東征の際に腰掛けたとされる腰掛石があります。総社宮を造営する際にこの地を選んだ決め手になったのはこの腰掛石があったからだそうです。なおヤマトタケルは「常陸国風土記」では“倭武天皇”と記されています。

 

 台風は2つ一緒に来るわ、地震は頻発するはで落ち着かない日が続いています。幸い筑波嶺ではどちらも大事ないようですが、被害の大きい地域の方にはお見舞い申し上げます。個人的過去アーカイブ画像は秋の長谷寺(2018年10月)。鎌倉の方ではなく奈良の方のです。奈良時代の創建と推定されていますが、「枕草子」や「源氏物語」といった古典文学にも登場する名刹です。京都も奈良も好きなのですが、奈良の方が人が少ないので徐々に奈良派になっていったのでした。



 

 6月末ということで春季アニメも次々と最終回を迎えています。毎季の恒例ですがそろそろ感想を綴っていきましょう。まずは「逃がした魚は大きかったが釣りあげた魚が大きすぎた件」。タイトルの長さでお察しのとおり「なろう」系です。他国に婚活に来た貴族令嬢の話なので、“釣り上げた魚”が王太子であることは自明の理なのですが、じゃあ“逃がした魚”って何なんだと思います。人違いされて王太子から婚約破棄されたのが物語の発端でしたが、これを“逃がした魚”と解釈すると、逃がした魚=釣り上げた魚なので、大きさは変わらんだろうという。元々は実家の跡を継ぐという話だったので、そっちが“逃がした魚”なんでしょうかね。各回のサブタイトルを見ると“逃がした魚”はマリーアを指しているとしか思えませんが、なんか意味不明です。



 

 「なろう」系にありがちですが、国のありようとか外交関係とかはもういろいろガバガバなので、そのあたりを真面目に考えるのは時間の無駄です。幸い主人公のマリーアが世間知らずなので、彼女の視点に立って一緒に様々な事件を見ているという態にしておけば「よく分からんけど色々あった」という小並感で通り過ぎられるかと(笑)。



 

 それでよく最後まで視聴出来たなと我ながら思いますが、いわゆる婚約破棄ものの一種ではあるのですが、婚約破棄した王太子が悪人ではなかったということが大きいかと。破棄の理由も自分本位ではなく他者(弟)への配慮の結果だったり、結局は主人公にぞっこんラブ(古い!)になって結ばれることになるという。



 

 本来の婚約破棄対象だったマリーアの親戚にして友人のアイーダが絵に描いたような貴族令嬢で、見た目に「これははやみん(早見沙織)の役だろう」と思ったらまさにそのとおりだったので、そのあたりも個人的にポイントが高かった。あとマリーアの愛称はなぜか“ミミ”なんですが、昔私の家で飼っていた猫の名前なので愛着が出たというか。ところで“ミミ”の由来はなんなんでしょうかね。



 

 マリーアの実家は武術(拳法)の名門で、当主はその武術の達人でなければならないようです。子供が全員女の子だったので末っ子のマリーアが家を継ぐために修行させられていましたが、よもやの男児誕生により御役御免ということに。でもマリーアは武術の素質が極めて高く、一方幼い弟は男子とはいえその才能はまだ未知数。単なる貴族の家の跡継ぎというなら男子優先でもいいのでしょうが(いや、いかんという声も昨今は高いと思いますが)、技能とかスキルが重視される場合は、必ずしもそれでは良くない気が…。そういえば「なろう」系にしては本作は魔法とか異世界転生といった要素は全くなかったですね。そこはちょっと新鮮でした。



 

 続いて「お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件」第2期。本作も「なろう」系で、第1期からおよそ3年を経ての続編でした。本作も「逃がした魚」同様タイトルに偽りありというか疑問ありで、むしろ駄目人間だった主人公が“お隣の天使様”によって真人間になっていく話ではないかと思います。



 

 1期は主人公周が天使様こと真昼と付き合い始める話なので見所はないではなかったのですが、今期は完全い相思相愛のラブラブ状態なので、見所がないというか激甘で食傷気味になるというか。まるで葬式饅頭にシロップをぶちまけたかのような。一応周が人間不信になる契機となった過去の友人の登場とか、愛に飢えて育った真昼の実父の出現とか、波乱が起きそうな要素はあったのですが、どちらも大事にならずに終わってしまいました。ここは昔の友人達が今の周に嫉妬して真昼を拉致るとか、真昼のパパンが真昼を政略結婚などの駒として使おうと目論むとかいった展開を期待したいところなんですが、「なろう」系であっても舞台が現代日本なのでそこまでの展開にはなり得なかったというか、そもそも作者がするつもりがなかったのでしょうか。



 

 真昼のCV石見舞菜香の素敵ボイスが聞きたいので最後まで視聴しましたが、激甘展開のままならば、仮に3期があってももう見ないでしょうね。なにしろ展開が激甘すぎるのと、真昼には割るけど主人公周があんまり好きになれないタイプなので。



 

 次は「Re:ゼロから始める異世界生活」第4期喪失編。後半にあたる奪還編は夏季に始まりますが、8話しかなくて8月から放映ということなので、とりあえず前半部分についての感想を。



 

 リゼロも「なろう」系ですが、玉石混交、ただし“石”極めて多めの「なろう」系にあって、稀少な“玉”作品の一つだと思います。「なろう」系主人公といえばチート能力でブイブイ言わせて美少女を侍らせてハーレム状態というのが一つのお約束みたいになっており、現世に多々不満がある作者の自己投影なのかと思ったりもするのですが、本作の主人公スバルは「なろう」系一過酷な環境に置かれ続けている主人公ではないかと。



 

 正直スバルの人柄とか、私は全然好きではなく、というかはっきり言えば嫌いなんですが、これはわざとそういうキャラにしているのではないかと思っています。「なろう」系作品の主人公は、作者の自己投影であるのみならず、しばしば読者の自己投影の対象になるのではないかと思うのですが、スバルの場合は極めて自己投影しずらいキャラになっているのではないかと。彼が遭遇し続ける凄まじい試練の嵐を思うと、読者がスバルに自己投影しちゃうとちょっと耐えられないと思います。



 

 好きだという人には大変申し訳ないのですが、そういう“嫌われスバル”が文字通り死ぬような経験を積み重ねた末に困難を打開し、その過程で様々な人々との絆を形成していくのが本作の流れですが、今回の困難は過去一ではないかと。なにしろ突如記憶を失って、最初期の異世界にいきなり転移した頃のスバルに戻ってしまったので。死線を何度も潜ってきた割りに、スバルのパーソナリティはあんまり変わっていないような気もしますが、それでも積み重ねてきた経験による自身の成長とか他者への配慮とかが彼を徐々に変えてきたと思うのですが、それがリセットされてしまうという。



 

 第3期も前半が「襲撃編」で後半が「反撃編」ということで、力道山のプロレス(古すぎる!)に例えれば、反則の限りを尽くす悪役レスラーにいいようにやられているのが前半、怒りが頂点に達して伝家の宝刀空手チョップが炸裂して観客が溜飲を下げるのが後半でした。今期も同じ手法だと思われ、前半の展開がエグいほど後半のカタルシスが大きくなるのでしょう。力道山はいくらなんでも古すぎるという方々には、平井和正のウルフガイシリーズの前半と後半に例えればいいでしょうか。いやこれもなあ…(笑)。ま、我慢して前半を視聴し続けてきた人はぜひ後半を見てスカッとして貰えればと。ただ、先に述べたとおりスバルは視聴者が自己投影しずらいキャラだというのはこういう展開にとても適していて、彼がどんな酷い状況に置かれても、わりと冷静に見ていられるのではないかと。これを計算に入れていると思われる作者はやはり他の「なろう」系作者とは一線を画した存在なんでしょうね。



 

 最後に「インゴクダンチ」。5分ほどのショートアニメで、女性の変質者が出没するという噂の団地で、父に代わって管理人をすることになった青年が遭遇することになる凄まじい変態人妻達のエピソードです。原作のタイトルは「淫獄団地」ですが、字面がヤバイということでアニメ化に際してカタカナになったんでしょうね。



 

 前半次々に登場しては団地を騒がせる変態人妻達。しかし彼女達は危険度で言えばせいぜいB程度。これは「人妻危険度ランク」を作成したカタギリさんによれば“犯罪兆候のある人妻。気を付けて接すれば害はない”というレベルなんだそうです。とてもそうは思えないのですが(笑)。「幽☆遊☆白書」であの強かった戸愚呂(弟)が、上位とはいえB級妖怪に過ぎなかったことを思えば、B級ってあなどり難い気もしますが。



 

 後半登場してきた「バニシング排斥婦人会」は団地の真の支配者で、危険度Aの人妻ばかりで構成されている模様。危険度Aは「人妻危険度ランク」によれば“凶悪ママ友集団。他の家族を強制退去に追い込む陰湿なイジメを行う”とのことです。作中で直接戦ったのは一人だけでしたが、2期があれば本格的に登場してくるのでしょう。「幽☆遊☆白書」ばりにさらにその上の危険度Sの人妻もいるそうで、「人妻危険度ランク」によれば“未確認反社会人妻。正体不明だが関わったら死ぬと言われている”とのことです。作者のカタギリさんは一見普通の人のようでしたが、普通の人がこんなリストを作成できるかどうか。



 

 なにより面白いのは、危険度Bの人妻達(後に「変態人妻自助の会」を結成)は、CVが全員優木かなであること。「ウマ娘」でオグリキャップらと並ぶ“平成三強”の一角であるスーパークリークを演じている声優さんです。クリークはダイナマイトボディにやや強すぎる母性が特徴のウマ娘ですが、ごくごく清楚系のキャラなんですけどねえ…。いいぞ、もっとやれ(笑)。危険のAの「バニシング婦人会」のキャラは複数の声優が演じていますが、中には優木かなが演じる人妻も入っているという。もっと言えば「人妻危険度ランク」を作成したカタギリや空手の達人ゴウダ(ジャイアンにあらず)もCV優木かな。監督に愛されているのか原作者に愛されているのか。でも面白いからヨシ!ただクリークだけは引き続き清楚に演じて下さいね。



 

 管理人ヨシダのパパン(先代管理人)兼ナレーションは杉田智和。判っているなあ制作陣は。ニコニコ動画のハッシュタグに“(杉田以外の)声優の家族を解放しろ”とあったのには笑いました。本作のようなちょっとまともとは思えない作品に、なぜあえて出演するのかという声優さんが出演している場合、家族が人質にとられているからではないかという想定により「〇〇さんの家族を解放して下さい」などというコメント(全てお約束)が良く付きますが、杉田智和だけはそういう事情はないという想定(笑)。「土下座で頼んでみた」の主役を演じてるだけはありますな。

 


 

 

 本日は夏至&父の日。父の日の方はさておき(さておくなという全国〇千万のオトーサンの声は非情にも無視)、夏至って何かをするとか食べるといった全国的な習慣は聞かないですね。冬至だと柚子湯に入るとか南瓜を食べるとかあるのですが。関西には水無月という、ういろうに小豆を載せた和菓子があって…と言おうかと思ったら、あれは夏至ではなく夏越しの祓い(6月30日)に際して食べるものでした。個人的に好きなんですが、関東とかでは見かけないですね。画像はそんな話とは無関係に蔵出し画像シリーズ②智積院の庭園(2018年)。千利休好みといわれ、国の名勝に指定されています。



 

 小石川後楽園探訪の2回目です。大泉水から更に奥に入っていきます。庭園の東側、東京ドームそばにひっそりと佇む赤門。赤門というと東大のが有名ですが、あれは加賀藩上屋敷の御守殿門(徳川将軍家の姫が正室として嫁いで住んだ奥御殿の門)ですね。こちらの赤門はあれほど大きくはなく、朱塗りも控えめな印象です。平成26(2014)年に修復した際に発見された釘などから、明治以降に建てられた可能性が高いということで、将軍家の姫が輿入れしたので建造したというものではなさそうです。



 

 庭園北側の小山にある小町塚。小野小町とどういう関係が?と思ったら、常陸の小野で産出した石であることから、小野といえば小町ということで光圀が名付けたとか。駄洒落かよ!と思ったのですが、しかーし、現在は土浦市の小野だとするならば、小野小町ゆかりの地として知られており、小町の墓と伝わる五輪塔があったりします。出生地としては秋田が有名(他にも諸説あり)ですが、土浦の小野は亡くなった土地であるとの伝承があるそうです。



 

 小町塚のすぐそばにある八卦堂跡。光圀が将軍家光に拝謁した際に賜った文昌星(中国の学問を司る神)の像を祀った八角堂があったそうです。関東大震災で焼失し、今では基壇と基礎が残るばかりです。観光資源的には復元した方が…と思いますが、予算の都合とかあるんでしょうかね。唐門だって復元は最近のことですしね。



 

 小町塚や八卦堂跡があるのは園内でも一番高い築山の上で、急な直線上の石段は愛宕坂(男坂)と呼ばれています。今は通行禁止みたいですが、膝をやっちゃいそうで仮に通行可能でもあまり登り降りしたくない坂です。その横の女坂をゆるゆると下ります。



 

 日本離れした印象のある円月橋。池の水面に映る形と併せて満月のように見えることから命名されたそうです。日本っぽくないと思ったのも当然で、明が滅んだ際に日本に来た儒学者の朱舜水に作らせた石橋です。中国の技術を使ったそうで、この橋を見た家光が江戸城内に同様の橋を作らせようとしたものの上手くいかなかったとか。いつもは知りませんが、少なくともこの日が水面が藻で覆われていて満月が映りようがなかったですね。



 

 園内で唯一江戸時代から現存する得仁堂。やはり光圀の建立で、司馬遷の史記を読んで、伯夷・叔斉のエピソードに感銘を受けて二人の像を祀ったそうです。父が弟の叔斉に跡を継がるという遺言を残した際、兄の伯夷は遺言に従おうとしましたが、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとしたので伯夷は出奔。しかし叔斉も跡を追って二人で流浪の身となりました。周の武王が殷の紂王を滅ぼそうとした際、二人はこれを止めようとしましたが果たせず、周の成立以後は周の粟(穀物)を食む事を恥として山に隠棲して山菜を食べ、遂には餓死したとか。餓死直前に作ったという「采薇の歌」が有名ですが、光圀的には兄弟が地位を譲り合ったあたりに兄頼重と自分の関係を重ねたのではないかと思われます。「得仁」の名は、孔子が「論語」で二人を「古の賢人なり」と評し、「仁を求めて仁を得たり、又た何をか怨まん」と記したところに由来しています。



 

 渡月橋。近くには京都の東福寺にある通天橋を模して造られ通天橋もあるはずですが、工事中で見られませんでした。こちらは土の橋で通行可能ですが、嵐山の渡月橋を模したとは思えませんね。しかしこの辺りの風景はとても都会のど真ん中とは思えない雰囲気です。



 

 屏風岩。その名の通り屏風のような立石です。ドルメンとか言われたら信じてしまいそう。関東大震災時には倒れ伏したそうですが、その後復旧されました。



 

 西湖の堤。光圀が朱舜水の意見により、中国・杭州の西湖の堤に見立て造らせたそうです。西湖の堤を表現した庭園は他にもありますが、その嚆矢は小石川後楽園だそうです。



 

 ちなみに本物の西湖の堤はこちら。うーん、だいぶ違うような気もしますが(笑)。ま、当時は実際に見てくるというわけにはなかなかいかなかったでしょうが。ちなみに「長恨歌」などで知られる唐の詩人・白居易が杭州の刺史だった時に西湖で水利工事を行った際に作ったのがこの堤で、後世の人が白居易の功績を讃えて「白堤」と呼んだとか。



 

 園内は中国趣味が横溢していて、ここは廬山を彷彿とするとして小廬山と名付けられています。本物の廬山は1500メートル近くあるのでミニチュアすぎる気もしますが、1/144スケールか。まあ庭園なんでそんなものでいいのでしょう。個人的には廬山と聞くと昇龍覇と言いたくなりますな(笑)。龍飛翔とか亢龍覇というのもあるZO!ちなみに師匠の老師(童虎)は百龍覇という技を使っていましたね。


 涵徳亭。現在はレストラン・集会所として使用されています。障子に当時は希少だった硝子を用いていたことから、江戸中期までは「ビイドロ(硝子)茶屋」と呼ばれていたそうです。関東大震災などで焼失し、再建後に昭和60(1985)年に全面改装されているので当時の面影はあまりないかもです。



 

 西側からの大泉水。東京ドームを借景にして雪山に見えないものかと試して見ました。わりと良い感じで撮れたんじゃないかと思いますが…く、苦しい?



 

 右側のビルを排除してもう一枚。ちなみ中央の中の島は蓬莱島。庭園の池には必ず蓬莱島が配置されているような気がしますな。大きな立石は徳大寺石で、関東大震災時には倒壊して池に沈んだそうですが、その後復旧したそうです。



 

 蓬莱島にある弁天堂。朱塗りなので目立つのですが、木立がじゃまでチラチラとしか見えず、お堂の後ろ側からになってしまいましたがなんとか撮影しました。作庭当時から祀られていて、当時は舟で参拝されていたとか。



 

 田舎の酒店という趣向で作られたという丸屋。やはり関東大震災で崩壊し、その後再建されたそうです。



 

 大泉水西岸にある一つ松。将軍家光は作庭の際、この松の下に座して指図したと伝えられているほか、光圀は特にこの松を大切にし、枝一本たりとも切らせなかったとされているそうです。まあ今の松は当時の松とは別物ですが。



 

 西行堂跡。作庭当初から建立され、西行の木像が祀られた堂があったそうですが、関東大震災で崩壊し、その後再建されるも戦災で再度焼失したそうです。今は基壇と入口両脇の獅子のみが残っています。



 

 駐歩泉の碑。九代藩主斉昭(十五代将軍慶喜のパパン)がこの辺りの景を初代頼房・二代光圀の遺勲と共に称えて駐歩泉と命名したそうです。石碑の字は斉昭の自筆。



 

 白雲台跡。園内南東側にあり、木曽川・寝覚めの床に模した流れとその周囲の鬱蒼とした木立の中にあって、この高台に登って初めて白雲の行き交う様子が見えたということです。



 

 大泉水には蓬莱島以外にも小島があって、これは竹生島かな?大泉水は琵琶湖を模しているそうなので、竹生島があるのはごく自然。ま、蓬莱島はないんですけどNE!島の上では亀が甲羅干しをしていました。



 

 ということで小石川後楽園探訪はおしまいです。お帰りは西門から。300円でこれだけ楽しめれば大変お得と言わざるを得ませんね。近所に住んでたら年パスを買いたいところです。私が年パス買ったのはこれまでに栗林公園だけなんですが、名園のそばに住むという体験はもうできないことでしょう。西門からは飯田橋駅が最寄り駅となりました。東門の最寄り駅が水道橋駅ということで、まるで小石川後楽園が一駅区間ぐらいあるように見えますが、実際にはそこまで大きくありません。しかし都心にこれだけの庭園が残っているというのは実に有り難いことです。思わず地価いくらぐらいなんだろうとか下世話なことを思ってしまいます。
 

 

 蔵出し画像シリーズ①那智の滝。2018年5月に撮影。日本三名瀑は華厳の滝・袋田の滝・那智の滝でほぼ鉄板のようです。“三大〇〇”は一つだけ未訪問というパターンが多いのですが、滝は全てクリアしていました。



 

 私、老後の楽しみとして、①現存十二天守制覇(天守最上階まで登るだけ)、②特別名勝・特別史跡制覇(行って見るだけ)、③47都道府県庁所在地制覇(都道府県庁所在地に泊るだけ)というのを考えています。足腰が元気なうちに、そして金があるうちにと思っていますが、どこまでクリアできるやら。十二天守制覇は年内に十一天守を制覇する予定なんですが、岡山にある備中松山城だけ未定です。現存十二天守中唯一の山城ということでアクセスがやや面倒ということと、同城の所在する高梁市にこれはというビジネスホテルがないという致命的欠点が(笑)。ドーミーインとは言わん、せめてルートインでもあれば御の字なんですが…それもないという。都道府県庁所在地制覇も兼ねて岡山市で泊るか…。実は47都道府県制覇(一泊すれば“制覇”)は達成しているのですが、岡山県は一番最後だったんですよね。泊ったのは倉敷でした。ちなみに画像は丸亀城。節子これ天守とちがう、ただの三重櫓や!



 

 それはさておき、今回は特別名勝・特別史跡制覇の一環として小石川後楽園に行ってきました。特別名勝であり特別史跡でもあるという、一粒で二度美味しいアーモンドグリコのような素敵スポットです。しかも近場。むしろなぜ今まで訪問していないのかと小一時間(ry



 

 先日訪れた六義園は柳沢吉保の造園した大名庭園(当時吉保は川越藩主)でしたが、小石川後楽園は水戸徳川家の江戸上屋敷内に造営された庭園です。水戸徳川家と言えばる将軍家に次ぐ家格の御三家の一。筑波嶺在住の身としては最優先で伺うべき…と思われるかも知れませんが、水戸藩は常陸国全域を治めていた訳ではなく、南部には天領や中小藩、旗本領が多数存在しており、必ずしも水戸藩にいい印象を持っていなかったという。今でも土浦以南は水戸ではなく東京の方を向いている傾向があるように思われます(ギリ東京通勤圏ということもあるでしょうが)。



 

 小石川後楽園は水戸藩初代藩主頼房と二代藩主光圀(ご存じ水戸黄門)によって完成された庭園で、三代将軍家光が何度も訪問しています。五将軍綱吉は光圀と不和だったともされ、小石川後楽園には訪れず、もっぱら寵臣柳沢吉保の六義園の方を訪れていたようですが、小石川後楽園は江戸城から舟で来られたらしいので、アクセスは駒込の六義園より楽だったと思われます。最寄りの駅は水道橋駅。



 

 駅のそばには東京ドームを中心とする東京ドームシティがあり、それに隣接して小石川後楽園があります。昭和の頃は後楽園球場と後楽園ゆうえんちがありました。その頃は一回か二回は訪れたことがあったように記憶していますが、東京ドームは入ったことあったっけかな?もしかするとドームも一度も入ったことがないかも知れません。ま、そっちは別段行きたいとも思わないのですが、小石川後楽園とは隣接しているので嫌でも目に入ってきます。



 

 小石川後楽園入口(東門)。左手の石碑には“史跡及名勝”と記されていますが、右手の門柱には“特別史跡 特別名勝”と。戦前は史跡&名勝で戦後に特別史跡&特別名勝に“昇格”したんでしょうか。入園料は六義園と同様300円です。



 

 内庭の池と橋。かつては水戸藩書院があったそうです。ここだけでも小ぶりながら築山泉水回遊式庭園として完成していますが、本命はその奥にあります。



 

 池の向こうに見える唐門。この先が正式な後楽園で、内庭はプライベートエリアだったようです。戦災により焼失してしまいましたが、2020年末に復元されました。まだ真新しいですね。



 

 この日は梅雨の中休みというのか、天気が良くて結構暑かったです。一見渡れそう、でも渡れない中の島への橋。あじさい橋か(古い)。



 

 池のほとりをぐるっと回って唐門へ。後楽園への正式な入口とのことですが、門は閉ざされていて入れません。開けてくれればいいのに。



 

 ま、回り込んで行けば良いだけの話ではありますが。唐門の裏側はこんな感じです。柵で囲んで立ち入り禁止になっていますね。門の機能とは一体…



 

 とりあえず内庭散策を続けていると見つけた陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑。東京工廠は明治4(1871)年に水戸藩邸跡に移転し、兵器製造の中心として発展しましたが、大正12(1923)年の関東大震災で大きな被害受けたことで小倉に移転されました。昭和10(1935)年に工廠移転が完了したことでこの記念碑が建立されました。ちょっと変わった形をしていますが、工廠の敷地の形を模しているとか。かつては小石川後楽園全体が工廠の敷地の中に収まっていたようです。



 

 富士見堂。少し高い場所にあり、往時はここから富士山が見えたのでしょうか。右側の小さい立て札には東祠堂と記されています。どっちなんだいっ!?と、なかやまきんに君ばりにツッコみたくなりますな。パワー!!(笑)



 

 高いところになにやら厳重に保管されている態の謎の箱状物体が。「藤田東湖先生遺蹟」との表示がありました。藤田東湖は水戸藩士で水戸学の大家で尊皇攘夷派の思想的基盤を築いた人物だそうです。安政江戸地震(1855年)の際母を救った代わりに自身が家の下敷きになって亡くなったそうです。写真は撮りませんでしたが園内には「藤田東湖護母致命の処」と書かれた記念碑も建っていました(水戸藩邸で死亡した訳ではない)。何が入っているのかわかりませんが、この厳重な保管具合…特級呪物でも出てきそうな。



 

 東京ドームと内庭。借景としてなんとかならんかと思いましたが…他のビルも写ってしまうのでなかなか。ドーム部分だけなら雪山に見立てることも可能なんじゃないでしょうかね。またトライしてみましょう。



 

 いよいよ後楽園の本体へ。大泉水にビルの姿が映ってまるで鏡のようです。やはり内庭の池よりずっと大きいです。



 

 水鏡だけに焦点を当ててみたいと思いましたが、やはりビルだと風情に欠けるようです。都会らしいといえばらしいのですが、やはり山とか映したいですね。



 

 大泉水のほとりに立つ異形灯篭。江戸時代からあるらしいですが、形は大きいけど灯篭としては背がかなり低いように思われます。夜の船遊びの際に灯台の役割を果たしたとか。


 
 

 風流な酒亭、九八屋。妙な名前ですが「酒を飲むには昼は九分夜は八分にすべし」と戒めからだそうです。いや昼から酒を飲むなよとツッコみたくなりますが。現在の建物は昭和34(1959)年に復元されたものだそうです。



 

 園内には花菖蒲が咲いていました。残念ながら盛りは過ぎてしまってますかね。


 
 

 稲田。水戸光圀の嗣子(水戸藩三代藩主)は綱條ですが、彼は光圀の実子ではなく、兄頼重(高松藩主)の子、つまり甥です。光圀は兄を差し置いて水戸藩の家督を継いだことを苦にしていたらしく、兄の子を水戸藩主とし、代わりに自身の子(頼常)は兄の養子として高松藩を継がせることにしました。



 

 ジャギ兄さんが激怒しそうですが、光圀が頼重より優れていたから水戸藩主を継いだ訳ではなく、パパンの頼房が兄(尾張藩主の義直、紀州藩主の頼宣)より先に先に子を設けるのをよしとせず、頼重も光圀も“水に流す”よう命じていたものを、家臣が密かに養育していたという。養育していた家臣の目端が利いたのか、光圀が先にパパンへのお目見え及び将軍(家光)へのお目見えをしてしまったことで、弟なのに世子に決定したという。



 

 光圀=ケンシロウ、頼重=ジャギだったら「北斗の拳」ばりの愛憎劇になったところですが、別にそんなことはなかったぜ!(byソードマスターヤマト)



 

 ま、そういう話はさておき、稲田は綱條の夫人(本清院)に、農民の苦労を教えようと光圀が作らせた田圃だそうです。夫人は公家出身(左大臣の娘)だったそうで、農民の苦労は知らなかったとは思いますが、あんた(光圀)だって知ってたんかいと言いたくなりますな。令和の世ならそんな“余計なお世話”系の舅は嫌われるだけのような。あんた(光圀)の嫁だって関白左大臣の娘だったじゃん…まあ早逝しちゃったから苦労を教える暇もなかったかもですが。



 

 なお、稲田は今では地元の小学生が田植えと稲刈りを行っているそうです。長くなったので続きは明日に。
 



 ワールドカップが始まっています。日本チームの初戦は明日早朝ですね。仕事そっちのけで視聴する人達も多いことでしょう。さらに仕事そっちのけの人は現地に行って応援してたりするんでしょうね。円安で大変そうですが。私はサッカーにはさほど興味はないのですが、結果はともあれ、フェアプレーで戦って欲しいものです。



 

 さて松山紀行二日目ですが、まずは前夜の“豪遊”の結果です。左から飲み始めており、一番タカラの焼酎ハイボール(サイダー割り)。焼酎ハイボールのシリーズはアルコール7%で、もうちょっと低めがいいなと思っていたら5%のがありました。一番手だったせいか一番美味しく飲めたような気がします。二番サントリーのこだわり酒場のしびれモン。これもアルコール5%。胡椒と唐辛子風味を加えたスパイシーな味わいとのことです。スパイスといえばサッポロから販売されていた蔵風呂スパイスソーダというのが結構お気に入りだったのですが、既に販売終了していました。そして本品も製造を終了しているようです。スパイスは酎ハイには鬼門なのか。三番サッポロの男梅サワー旨しそ梅ダブル。数量限定発売だそうですが、これはなかなか。ダブルというのは赤しそと青しそが入っているからだそうです。子供の頃は大嫌いだったしそですが、今では大好き。四番サントリーの翠ジンソーダ。通常アルコール7%ですが、これは5%の〈すっきり爽やか〉。うん、たしかにすっきりしていました。そしてラストの5番はコカコーラの檸檬道定番レモン。これはザ・レモンサワーという感じで言うことなし。図らずも全部アルコール5%となりましたが、これぐらいが今の私には丁度いいのかも。



 

 7時過ぎに起きて朝風呂に入って、8時頃に朝食を食べて、9時にはチェックアウト。いつもより1時間ぐらい早めに動いていますが、11時半前の特急しおかぜに乗る前に行きたいところがあるからです。またもや大街道から市電に乗って道後温泉へ。しみじみ思いましたが、JR松山駅って道後温泉からは結構遠いのですね。大街道が中間地点という感じです。



 

 市電の駅すぐそばにあった坊ちゃんカラクリ時計。毎時0分に動き出すそうですが、まだ20分以上あったので待つにはちょっと長すぎました。小説「坊っちゃん」のキャラクター達が出てくるそうです。松山市内では、坊ちゃんとマドンナをカップル扱いしているような雰囲気がそこかしこにあるのですが、マドンナは坊ちゃんとはほとんど接触がなかったはず。小説の内容改ざんになりはしないですかね。



 

 正岡子規像。松山は一時期夏目漱石と正岡子規という明治の二大文豪を擁していた訳ですね。漱石は一年ぐらいしか松山にいなかったようですが、正岡子規にとっては出身地。野球のユニフォーム姿の若き日の正岡子規ですが、子規は日本に野球が導入された当初の熱心な選手だったそうです。ちなみにポジションはキャッチャー。1890年3月末に撮影されたユニフォーム姿の子規の写真を元に制作されたようです。



 

 道後温泉と言えば見逃すわけにはいかない道後温泉本館。スタジオジブリの映画「千と千尋の神隠し」に登場する湯屋「油屋」の公式モデルの一つということでも有名ですね。せっかく来たのだから入浴して行くべきなんでしょうが、ドーミーインで朝風呂に入ってきたので。



 

 道後温泉は日本三古湯の一つとされ、三つ目の温泉には諸説あったりしますが、道後温泉と有馬温泉は鉄板のようです。道後温泉本館は1894年に完成した市営の共同浴場で、重要文化財に指定されています。共同浴場番付(そんなのあるんだ)においては西の横綱(東の横綱は長野の湯田中温泉)で、ミシュランガイド(観光地)日本編においては2つ星に選定されているそうです。



 

 道後温泉本館の傍らにある玉の石。大国主命と少彦名命が伊予国を訪れた際、少彦名命が病気になってしまいましたが、道後の湯に浸したところたちまち元気になり、この石の上で舞い踊ったとか。この二人は4月に訪問した生石神社の伝説でもペアで登場しており、神代の名タッグといったところですね。



 

 松山に来たら素通りはできないので道後温泉にも来ましたが、本当に来たかったのはこちらの道後公園です。松山城の前にはここに湯築(ゆづき)城という城がありました。1335年築城というので、鎌倉時代が終わって室町時代に入る前の建武の新政の頃ですね。1585年に羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らに攻められて開城し、その後廃城になったそうです。湯築城の瓦等の建材は、松山城の建築に流用されたとか。



 

 石造りの湯釜。かつては道後温泉の浴槽内の湧出口に設置されていたもので、奈良時代に作られ、明治まで使われていたそうです。石製とはいえ千年も保つとは凄いですね。



 

 湯築城は伊予国の守護だった河野氏が250年に亘って居城とした城で、戦国時代に四国統一を目指した長宗我部氏とも戦いました。大昔ファミコンで遊び倒した「信長の野望 全国版」でも伊予国の大名として河野氏が登場していましたが、四国は長宗我部氏がとにかく強くて、あっという間に滅ぼされていた印象があります。蝦夷の蛎崎氏(後の松前氏)なんか、第一ターンで津軽氏に攻め滅ぼされていたっけ(笑)。織田氏以外にも徳川、武田、上杉各氏などでプレイしましたが、攻略しやすかったのは島津氏でしたね。戦力はあるし、なにしろ北上していけば良かったので。



 

 本壇(本丸)があった頂上部分には展望台が設置されています。湯築城は古い城なので天守とかはなかったようですが、二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城で、縄張り遺構が良好に残っているそうです。



 

 展望台から西側の眺め。遥か遠くの小山(勝山)の上に松山城の天守が見えます。あっちは大天守をはじめ建物がたくさんあるので、観光客はとりあえずあっちに行ってしまいますよね。湯築城は櫓一つないし。



 

 反対側の東側の眺め。雨は止みましたがやはり雲が多くて伊予の山々が煙っています。



 

 道後温泉のある南側の眺め。温泉宿らしき建物はちらほらありますが、道後温泉本館は見当りませんでした。



 

 皇太子殿下駐駕所碑。駐駕所とは一時的に休憩・滞在した場所のことのようです。明治36年の行啓とのことなので、大正天皇が皇太子時代に訪れたのでしょう。



 

 伊佐庭翁頌徳碑。伊佐庭翁こと伊佐庭如矢は、今に残る道後温泉本館を改築したほか、松山城の保存、道後公園の整備など、松山を全国的な観光地とするために数多くの偉業をなした郷土の偉人的人物として知らています。背後に公衆トイレがあるのでなるべく写らないようにしてみました。



 

 復元された武家屋敷。大きさとか間取りとかはおそらく遺物によって正確に復元しているのでしょうが、外観は武家屋敷らしく見えませんね。



 

 武家屋敷内部。客人を招いて連歌の会など催しているらしいです。リクリエーションだと思いますが、あんまり楽しそうには見えません。軍議でも開いているみたい。



 

 もう一棟の武家屋敷。こちらは内部で発掘品などの展示がされていました。



 

 さきほどの武家屋敷から少し離れたところにある上級武士居住区。ちょうど湯築城の真南あたりです。立派な武家屋敷を復元して欲しいところですが、今のところはちょっとそれっぽい東屋があるだけでした。武家屋敷の屋根もこれぐらいのにしてくれれば少しは雰囲気が出たと思うのですが…



 

 最後に湯築城跡(道後公園)全景。松山市は城跡が二つもあるというなかなかに贅沢な街でした。そういえば青森の八戸市もやはり建武の新政の頃に築城された根城と江戸時代に築城された八戸城という二つの城跡がありましたっけ。でも城跡の残り具合は松山には全然及びませんね。道後公園からは市電でJR松山駅まで30分弱でした。ほぼ全線を乗り倒すと250円という料金も高くないです。