本日は盆の送り火。京都では五山の送り火がありますね。大阪に転勤していた頃はテレビ京都での生中継を見ていましたが、他の地域では見ることができず残念。でもYouTubeとかでなら見られるんでしょうかね。画像は出雲大社の境外摂社・命主社(いのちぬしのやしろ)の裏手にある真名井遺跡。江戸時代に出雲大社造営の際にここにあった大石を石材として切り出しところ、下から銅戈と勾玉が見つかり、後に重要文化財に指定されました。私もパワースポットと言われる場所を各地で訪れましたが、霊感がないのか鈍感なのか、全くそういう気配を感じることができなかったのですが、ここだけはパワーか何かは知りませんが、妙な気配を感じました。
ちなみに発見された銅戈と勾玉は、レプリカですが島根県立古代出雲歴史博物館で見ることができます。紀元前2世紀-紀元1世紀の弥生時代のものと推定され、出雲大社周辺が弥生時代から聖地とされていたことがうかがわれます。
さて水戸紀行の2回目です。47都道府県庁巡りと平行して行っている特別名勝・特別史跡に行こうという超個人的企画(あと、現存12天守に昇ろうというのもあります)に適合する特別史跡・弘道館を訪れました。水戸城跡とは道を隔てて向かい側になります。画像は正門。
入館料は420円。茨城県の特別史跡は3箇所あるのですが、石岡市にある常陸国国分寺跡と同国分尼寺跡は既に訪れているので、弘道館を訪問したことでコンプリート。3箇所って少ないと思われるかも知れませんが、奈良県の10箇所、福岡県の5箇所に次ぎ全国第3位です。もっとも3位の都府県は8つありますけど、一つもない県も結構あるのでまあまあ多い方なのでは。画像は弘道館の正庁(学校御殿)。正門と共に重要文化財に指定されています。弘道館の敷地面積は約10万5千平方メートルあって、藩校としては全国最大の規模でした。しかし完成は江戸末期と言っても良い天保12(1841)年なので、藩校としてはかなり後発ですね。
来館者控えの間の床の間にある、水戸学の精神を象徴するという「尊攘」の大きな掛け軸。弘道館を設立した9代藩主斉昭(烈公)の命により、藩医で能書家だった松延年が揮毫しました。当時はともかく、令和の時代に観光に訪れた外国人に見せてドヤっていいものなんでしょうか(別にドヤってるわけではないでしょうが)。尊攘って尊皇攘夷のことですが、尊皇はさておき排外思想の攘夷はいかがなものかと。
正席の間。ここは藩主が臨席して、ここと続く二の間で行われた学問試験や、外にある対試場で行われた武術の試験を観覧したそうです。床の間にあるのは、弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本です。
正庁の奥にある至善堂の御座の間。至善堂は四室あり、藩主の控室であり、藩主子弟の学習の場としても使用されたそうです。斉昭の七男で最後の将軍となった徳川慶喜も幼少期にここで学んだとか。なお慶喜は水戸徳川家出身ではありますが、御三卿の一橋家を相続したことで将軍になれたのだと思われます。将軍家宗家と御三家は時代を経るにつれ血縁関係が薄くなっており、“暴れん坊将軍”吉宗(8代目)以降は改めて宗家と血縁の近い親族として御三卿を設置しました。他家から養子を迎えることもしばしばだったので、遺伝子的な近さは厳密に言えば?ですが、「家」としては御三家より御三卿の方が宗家に近いと認識されていたんじゃないかと。じゃあなんで家茂は慶喜を差し置いて14代将軍になったんだというツッコミがありそうですが、そこはやはり紀伊徳川家は吉宗の実家なので。
最後の将軍・慶喜の長持。大政奉還後の慶応4(明治元(1868))年4月に慶喜は水戸へ下り、幼少時代を過ごした至善堂で謹慎生活を送ったそうです。その当時使用していた長持だそうです。
弘道館の敷地内にある鹿島神社。安政4(1857)年建立で、常陸一の宮である鹿島神宮から祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)の分霊を勧請して祀っています。
鹿島神社社殿。昭和20(1945)年に戦災で焼失しましたが、昭和49(1974)年の第60回伊勢神宮式年遷宮の際に伊勢神宮別宮「風日折宮」の旧殿一式が特別譲与され、昭和50(1975)年5月に伊勢神宮独特の「唯一神明造り」の社殿として再建されたそうです。
境内にある八卦堂。建学の精神の象徴である弘道館記碑を納めています。当時は弘道館の敷地中央にあったそうです。やはり戦災で焼失し、昭和28(1953)年に復元されました。中の弘道館記碑は通常非公開ですが、大理石製だったので戦災では無事でしたが、平成23(2011)年3月の東日本大震災で碑身の一部が崩落してしまったそうです(平成25(2013)年11月に修復)。
弘道館内に時刻を知らせるものとして利用されていた学生警鐘。斉昭自鋳の鐘が吊り下げられ、鐘には斉昭自筆の「物学ぶ 人の為にと さやかにも 暁告ぐる 鐘のこえかな」という和歌が万葉仮名で浮彫されています。戦火を免れましたが、鐘は複製に替えられており、実物は弘道館内で展示されています。
要石歌碑。私にはとても読めませんが、斉昭の自詠自筆で「行末(いくすえ)も ふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける」と記されているそうです。歌の意味は“日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏み違えることがあってはならない”だそうです。至善堂御座の間の床の間に拓本が飾られていました。斉昭って多芸だし、Wikipediaでは“藩政改革に成功した幕末期の名君の一人”と評されていますが、幕末の四賢侯には入っていないのですよね。将軍継嗣問題で敗れ、安政の大獄で処罰され、蟄居のまま没したせいなのでしょうか。次回は斉昭が造園した三名園の一つ、偕楽園を訪ねます。























































































