どこの家でも最初に生まれた長男とか長女は

珍しく宝物のように大事にされる・・・

 

 

母は18歳で結婚し翌年19歳で姉が生まれ・・・

姉が満1歳の誕生日を迎える前に父が召集され

戦地へ向かった・・

 

 


(父と母と姉と叔父)


庄屋の娘として産まれた母には

祖母と一緒に、父のいない家でとても百姓をして

何時終るか知れない戦争を見守り

父の帰りを待つことは出来ない・・・

 

 

実家の祖父母が母と姉を引き取り

父が帰ってくるまでの5年間(終戦後捕虜生活2年)

母の実家で暮らしていた姉・・・

 

 

姉より1歳年上の従姉と共に

伯父夫婦の元で・・・

 

 

父と同級生だった伯父は教員だったので

一度も戦地へ赴くことはなかった・・・

 

 

祖父母の家は戦時中でも

山林や農作業には小作人を自宅に

住み込みで住まわせ

 

 

食べ物や着る物には何不自由のない

暮らしだったという・・・

 

 

だからか・・・?

姉の持ち物は何もかも高級品を好む・・?

 

 

母は姉には結構甘くて、就職してからも

自分の給料で賄えないときには援助して

やってたみたい・・・?

 

 

たとえばはやりのオーバーが欲しいのだけど

自分の給料の倍の値段がするというと

母は「値打ち物は長持ちするから

大事にして持つことはいいことだ・・?」

 

 

みたいな感じで・・

 

 

会社に入って習いごとをして「毛糸の機械編みの

編み機が高くて買えない」と姉が言うと

母はヘソクリから捻出して姉に送っていた・・

 

 

姉の写真も節目ごとに写真館で撮って

立派なアルバムに成長記録として

何冊も残っていた・・・

 

 

それから6年後・・父がビルマの捕虜生活から

戻って生まれた子がワタクシメ・・・ガーン

 

 

子どもの育て方に雲泥の差があり・・・ガーン

 

 

私は母から母乳も貰ってないし・・・悲しい

 

 

ご飯のオネバをすくい取って

母乳代わりにして祖母が私を育ててくれた・・・ガーン

 

 

年子の妹がすぐ生まれ病弱だったので

母は年子の妹に付きっきり・・・ショボーン

 

 

姉は学校の宿題の習字なんかは

母がお手本を書いて

その上に半紙を載せて写すだけ

だったというのに・・・

 

 

私なんかは全然何もなし・・!

書き上げた習字さえ

ろくに見て貰ったこともなし・・えーん

 

 

母を頼らず自分でスルしかない・・・

 

 

 

母が病弱な年子の妹に付き添っていて

家にいなかったときに・・・

 

 

祖母にひらがなやカタカナや

ローマ字や算盤を教えて貰っていたので・・

安心して小学校へ入学できました・・・ラブ

 

 

姉が写真帳の成長記録を

何冊も残していたのを見て・・・

 

「私なんか写真帳が1冊もない・・・

七五三の着物の写真もなければ

成人式の着物もなかったわ・・

姉ちゃんは特別だったのね・・」

 

 

と言うと・・

5番目に生まれた4女クンがとどめの一発を!

 

 

「私なんかもう産むつもりはなかったのに

出来たから下ろすわけに行かず産んだ、

おまけの子や・・!と言われ・・

 

 

あらゆる面で手を抜かれ・・・

 

 

お弁当のおかずが白ご飯の他に

ソーセージがそのまま1本入れてあったという

酷い手抜きお弁当ヤッタで・・グラサン

 

 

4女クン・・お前も産みっぱなしか?

 

 

5人もいれば元気な子は

サバイバル育ちをするんやなぁ・・・笑い泣き

 

 

なんか安心したわ・・・てへぺろ