今思い返せば、母は私に人の倍、勉強して、

いろんな技能や資格、免許を身につけることの

大切さを教え、

私を可愛がってくれた父方の祖母は

人の真心の大切さを教えてくれた。


私が、小学1.2年生の頃かしら?


戦争が終わって10年くらいは経っていたのに

京都府の県境を越えて、(山を一つ越えた場所)

ボロ布で体をまきつけた

キリストさんのような恰好をした乞食(難民)が、

食べ物を求めて、

日夜、私の住んでる村落へと移動してきた。


その人数が、あんまり多くてきりがないので、

村民の中には居留守を使って

対応しない家庭も出てきた。


ある夕暮れ、栄養失調の赤子を背中におぶって

両手に3・4歳の男の子と女の子の手を引いた

乞食がチーンと鐘を鳴らして玄関に立っていた。


今まで乞食に食糧を提供していた村民は

自分たちも食べて行くのが精いっぱいになり

毎日のように現れる乞食を、

無視しだした。


でも、祖母だけは違った。


祖母は、その子どもたちを見て涙を流し

小さな、垢まみれで、すすけた、手や顔を

きれいな水で浸したタオルで、

丁寧に拭いてやり


「まだ言葉も分からないこんな子がいる。


食べ物を分けてやらないと死んでしまう。


うらの食事はいらん。


うらのご飯とおかずを分けてやってくれ。」


と母に頼むと、


母は何を思ったのか、ついでに、父や母と、

私たち、5人分の姉弟のご飯やおかずを

大幅にへずり、

乞食の持ち歩いている

飯ごうと鍋に詰めてやった。


お陰で、私なんか、

乞食さんの取り分の方が多かったのか

中学3年ころまで、栄養状態 「可 」でしたんやわ。

早く言えば「栄養失調」ですねん。


♪苦しさに負けた~いえ、乞食様に、まけた~♪



祖母は、母にお礼を言い、


そのあと、私たち孫に向かって


「お前たちは、今日食べられなくても、明日は食べられる。

有難いことや。

でもな~  乞食は、明日食べられると言う

保証がないんやで。


目の前の不幸な出来事は、

自分が我慢をしてでも、人を助けてやりなさい。

と神様が教えてくださっているんや。


これは学校では習えんことや。


神様が、お前たちの為に、

姿を変えて教えて下さっている、と思って

学んでいこうな~。」


と祖母から教えられ


私たちの夕食がへずられても何だか、

清々しい気分になれた。



でもうちの宗教、

永平寺を本山とする曹洞宗なんですけど・・・



この際、キリストさんの恰好した乞食さんの為に

ちょこっとだけ、アーメンになったるわ~



祖母は、いつも自分を犠牲にして人助けをしてきた。

父が戦争に行って、何年も、うちにいなかった時も、

外地に出向いている軍人には

恩給が家族に出たと言うのに、



「うちの息子は、現地で生きております。

私は何とか働いて食べていけますから

亡くなった方や、もっと、困っている人に

分けて上げて下さい。」


と言って国からの手当てを



受け取らなかった祖母。



祖母の死後、従兄から聞いた。



自分が、国民年金を、貰っても、一切手を付けず

私たち、5人の孫の学費に回してくれた。


「回りの人が幸せになってこそ自分が幸せになれる。」

祖母の口癖だった。


私も、原点に戻る努力を続けて行きたいと


願う、今日この頃です。