私が生き方を尊敬していた人のひとりに会って、「今お幸せですね」
と会話が進むはずだったのに、どこかですべって、
「今、お幸せですか?」と、とんでもない質問をしてしまった。
しまった、と思ったが、その人は少しもあわてず、次のように話して
くださった。
「人の幸か不幸かの判断は、現在はまだ通過地点だから
語ることが出来ない。 本当に見極められるのは、一生を
終えて、最後に目をつぶるとき初めて語れます」
えっつ・・こんなに恵まれた環境の人が・・・
ご主人は立派な職業をもち、一生食べても余りある財力を築き
お子さんも二人とも立派な肩書きを持ち、何不自由の無い生活を
送っておられる人が、まだ迷うことなんて、どこにその基準はあるのか
・・・不思議だった・・・人の、幸か不幸かの判断はどこにあるのだろう・・・
私は、この人の生き方が好きだった。大金持ちなのに、それを
おくびにも出さず、自分の洋服などは、
気に入ったハギレを買ってきて、知人に縫ってもらうとか
ご主人、お子さんのセーターなども自分で編んだり、
決して無駄遣いせず、家事全般を、そつなくこなし、
周りの人に愛され、その生活ぶりは、
その日暮らしの私達でも、真似したいほどの
信望の厚い人だった。
今でもその気持は変わらないが・・・
幸とか不幸とかは、瞬時、瞬時で言葉にできぬほど
重みがあるものなのか、
いい加減に切り刻んでばら撒いている
凡人にはつかみどころがないような気がする。
でも、わかる事は、死に行く人を見送るとき、家族や肉親が
みんなその回りに集まり、故人が安心して旅立てるよう見送ることだと、
そんなふうに解釈した。
私の幸せ基準・・給料の多い少ないだった。
ごめんね。相棒君・・・