ペダルをこぐ速度は常人の2倍程度はあるリョーマ。
出前やら何やらで、日頃から鍛えられていたせいであったが、
こんなところでそれが役に立つとは誰が予想したであろうか。
リョーマが風を切り、空を切り、体育館へと向かい猛スピードで
自転車を走らせてからしばらくして、リョーマは上空に不自然なものを
見つけた。
見つけた、というのは正しい表現ではなく、たまたま、彼が休憩をかねて
自動販売機のコーラを飲んだ際に、ふと視界の片隅に、
妙な気配を感じたのである。
普段ならば、そんなものには気付かなかったかもしれない。
いや、愚鈍な彼なら間違いなく見過ごしていただろう。
しかし、今の彼は自分の身に起きている尋常ならざる事態によって
感覚が研ぎ澄まされていた為、その妙な気配に感づくことが出来た。
「ん?なんだありゃ?」
彼は、こういった事態においても自分らしさ、この場合はのんきさといいかえても
支障はないが、を失わずに行動でき、体育館へ向かわなければという義務感にも
似た思念のことは一旦忘れ、自分が今しがた発見した好奇心あふれるものへと
興味は移っていった。
ぼんやりと月夜に浮かぶ黒い物体、それは遠目からでよく
分からないけれど、何らかの影のような形をしていた。
その影のようなものは、屋根から屋根へと飛び移り、移動していた。
決して速くはないが、ぼーっとしていたら置いていかれる、そんな速度であった。
彼は少しも躊躇することなく、自転車に跨り、その影を追うことにした。
ここで、一つ断っておくが、彼は決して非情な人間ではない。
むしろ、ブンケイやさえちゃんらがリョーマに抱いている友情よりも、
リョーマが彼らに対して抱いている友情の方が熱いといっても過言ではない。
ただ、いかんせん、彼は、移り気が早く、そして単純であった。
それだけのことである。
リョーマはその影を見失わないように、かといって接近しすぎないように、
距離をコントロールしながら、追跡を開始していった。
人家から人家へ飛び移っていく影は、
時折考えるように立ち止まることはあったが、
目指す場所が決まっているかのように、迷いなく進んでいった。
そしてその影が隣町である朝顔町のあたりまで来たとき、その影は不意に
姿をくらました。
影が姿をくらますとは妙な表現かもしれないが、本当に、はたと消えてしまった
のである。あるいは、そのまま闇へと溶けて消えてしまったといった方が、
道理にかなっている気はするけれど。
「あれ…?見失っちまったかな?あちゃー」
リョーマはこいでいたペダルを止め、自転車から降りた。
走っている時は気がつかないものだが、止まっていると、
自分が思っていた以上に汗をかいていたことに気付く。
まるで止まった瞬間に、汗腺からいっきに汗が噴出してきたかのように
思えてしまう。
「こんなところでなにしてるの?!」
リョーマは背後からかけられた声に思わず、うひゃっと言いそうになった。
言いそうになっただけで、言わなかったことに注意してもらいたい。
振り返ると、そこにはさえちゃんが、不思議そうな顔で、立っていた。
「え?!さえちゃんこそどうして?!」
「わたしは、いつもこのあたりまでジョギングしてるのよ。
ほら、毎日の運動が大事、っていうじゃない」
確かに、よくよく見てみると、さえちゃんの姿は、上下ジャージ姿
で、首にはタオルが巻かれている。
ここは隣町なので、毎日さえちゃんがジョギングでここまで来ているの
だとしたら、相当な距離だ。
確かに、さえちゃんは頭も良くて運動神経も良い、パーフェクトガール、
(完璧超人と言い換えてもいいくらいである)なのだが、
案外それは地道な努力によって培われていたのかもしれない。
天才は98%の努力と1%のひらめきと1%のその他である、
と誰かも言っていた気がする。
さえちゃんがなぜここにいるのか、不思議がっていたので、
リョーマは自分がここまで来た理由を説明した。
もはや彼の頭から、謎の手紙が届けられ親友が危機的状況に
あるかもしれないということは、すっぽりと抜け落ちていた。
重ねていうが、彼に悪気はないのである。
「へぇ、そうなんだ。どこにいたの?」
「確か、あのあたりに――」
リョーマが、自分が最後に確認できたポイントを示そうと、
両手を挙げ、視線を移したその時、彼の目に、ちょっとした
驚きの光景が飛び込んできた。
なんと、彼が見失ったとばかり思っていた影が、
現れていただけでなく、その影がもうひとつ増えていたのである。
「あれ…?増えてる」
「え?何?どこどこ?」
さえちゃんは、必死になって探そうとしている。
彼は、自分の目をこすり、見間違いかどうか確かめたが、
やはり、そこには影がふたつ存在していた。
「いつの間に増えたんだろう…」
彼は、誰に聞かせるでもなくポツリと独りごちた。
すると、その声が聞こえたわけではないだろうが、
まるでそれを合図にしたかのように、その影同士がぶつかり始めた。
ぶつかったり離れたり、そういったことを繰り返し、それは喧嘩の様相を
呈しているようにも見えた。
「ねぇ、どこにそんなものあるのよ?」
リョーマはそんなさえちゃんの不満を無視し、食い入るように、
その影同士の争いを眺めていた。
この時、彼がどのような心境でそれを眺めていたのか、
知る術はないが、一つ、言えることは、その光景は彼を
興奮させ我を忘れさせるには十分だったということである。
リョーマは急に何かを思い出したかのように、影がいる方向へと
向かって走り出した。
彼に支えられていた自転車が倒れ、静寂を切裂くように音を出す。
「ちょ、ちょっと!リョーマ君!」
さえちゃんが、リョーマの咄嗟の行動に慌てている間にも、リョーマは
視線を影達に固定し、無我夢中で走っていた。
かなり距離があるように見えたが、リョーマが走り出して数分も
しないうちに、彼は目的の場所へと到達することが出来た。
存外近かったようである。
呼吸を整えながら、リョーマは目の前でいまだ繰り広げられている
影同士の争いを見ようと、視線を移動させたのだが、
彼はそこで初めて気付いた。
「う…牛若丸?」
影二つのうちの一つは、つい最近知り合いになったばかりの謎の剣士
、牛若丸その人であった。
続けて、相手方は誰なのか確認したが、もう一人には見覚えがなかった。
しかし、あの牛若丸と対等に数分間闘えているところをみると、相手も
相当の手練であることは間違いないように思えた。
既に、民家の屋根で激しい戦いが行われていること自体、
異様なことなのだが、リョーマのその単純明快な性格と学校での出来事
によって、そういった考えは微塵も湧いてこなかった。
「ねぇ…急にどうしたのよ?」
はぁはぁと軽く息を切らせながら、さえちゃんがリョーマの後ろに
立っていた。
どうやら、さえちゃんの方が体力はあるらしく、リョーマの全力疾走にも、
ジョギング後でスタミナ切れだったにもかかわらず、なんなくついて来れていた。
「あぁ…ごめん!何か急に気になっちゃって…」
と、自分のした行為に恥ずかしくなりながらもそれを照れ笑いで隠し、
さえちゃんにそう告げた。
「んー、今日のところは帰ろっか!何かオレの勘違いだったみたいで…」
さえちゃんが影達を認識できていないことで危険なことに巻き込まれる可能性
があったからだとか、そういった理論めいた考えがリョーマにあったわけではない。
ただ言えるのは、この場から一刻も早く彼女を連れて逃げた方がいい、という
虫の知らせともいえる直感のようなものからだった。
この判断はおおむね正しいといえる。
いえるのだが…遅すぎた。
さえちゃんとの会話のためリョーマが影達から目線を外した刹那に、
彼らのフィールドは民家の屋根から、リョーマとさえちゃんがいる路地裏へと
移動していた。
さえちゃん、リョーマを挟むようにして、牛若丸、もう一人の影、という構図に
なった。
二人の出す張り詰めた空気と殺気によって、一瞬にして路地裏は、戦場へと
様変わりしたようにみえた。
「!!
リョーマ、さえ…!」
なぜこんなところに二人が、という表情を牛若丸は浮かべた。
驚愕、失望、歓喜…そういった感情の起伏には必ずといっていいくらい
隙がうまれ易い。ましてやそれが戦闘中であるならば、決して表に
出してはいけないことである。
しかし、牛若丸にとってそれくらい彼らの出現は想像だにしなかったことであった。
だが、その代償は高くついた。
いつも冷静で感情をあまり表に出さない牛若丸の、その感情の
ちょっとした変化を見逃さなかったことは驚嘆に値する。
牛若丸が二人に気をとられている一瞬の隙をついてもう一人の影は、
もう影でも何でもなく一人の男性であるのだが、
さえちゃんとリョーマの後ろに移動し、両手で二人の首筋にナイフをあてた。
「…油断したな、姫」
二人の後ろに立つその男は、自分の手元に転がり込んできたチャンスに
思わず笑みをこぼしながら、そう呟いた。