私は何の為に生きているのだろうか。

希死念慮がある訳ではないが、パターン化した自分の生活を思い起こす度に感じるのだ何を目的に生きているのかと。


目的に先立って私が居るのか、私に先立って目的が在るのか。

数世紀前の捻くれ者が既に考えていそうなものだが、私の考えでは私に先立って目的が在るのだと思う。


我々は禁断の果実を食べたことで知識という快楽に溺れ他者を純粋に信頼する事も憎むこともままならなくなった。

我々は不自由になったのだ。

不自由と自覚できるが為に。


知識が我々に何をもたらしてくれたのだろう?

生活の質を向上させてくれたと本当に思うかね。

いくら物質的な生活の質が向上した所で幸せの程度は知れている。

明日にも忘れてしまうような物ばかりだろう。

我々の精神的な幸せの質は下がるばかりでは無いのか。

SNSを覗いてみれば愚者どもが言い争っていたり、過去の発言を掘り出したりと我々は何処で本当の自分を曝け出す事ができるのか。


詰まる所死ぬまで孤独なのだ。

友人が居ても、結婚しても、子供がいても人間として生きていく以上人の目に晒される。

時代ごとに変わる腐った倫理観も責任も全て背負わさられる。

そうして行き着いた結論が人間に生まれてしまった事が罪だということだ。

我々は何らかの罪で人間に変えられてしまったのだと、そう思う事にしたのだ。


そう思えば何と気の楽な事だろう。

なんて私は罪深いのか、と自分の陳腐な人生に割り切りがつくではないか。

そう、我々の目的は贖罪。

生き続け苦しみ続ける事でかつての我々が犯した大罪を償うのだ。

浅ましく醜い人々も私に罰を与える為に遣わされた試練なのだと、人生という名の盛大な清算の一環なのだと、そう理解した。