自我とは何ぞや | うじのブログ

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これも前々から書きたいと思ってたネタ。最初に書いておくと結論は無い。
私が自意識を持っているのは実感できている。「我思うゆえに我あり」だ。
でも、他の人から見て私が自我を持っていると思えるのはあくまで類推であって確実な事実では無い。
コンピューターが発達して、ヒトのハードウェアを模して自意識に芽生えるというのは十分あり得るシナリオであるし、応答だけから人と区別できない様なレベルだけで良ければかなりいい線行っているという話も聞く。
しかし、未来に出来る区別不可能なそれは自我を持っているように反応しているだけの機械であって自我を持っているわけではない。思考する「主体」が無いはずだ。
ハードウェアという主体ではなくて自我と言う主体。私が私と認識する主体。これはコンピューターには、少なくとも自我を持つ様にはコーディングされていないハードウェアには無い。当たり前だ。
そして、全く同じハードウェアに自我的応答を行うソフトウェアを搭載した場合、これも「思考する主体」は無いはずだ。もちろん本人(?)は自我があると主張するのだが、それはそう反応するようにコーディングされているだけで、無いはずだ。
そういうことを考えると、自分の「自我」というのもどこから来たんだと言う話になる。受精卵時代に「思う主体」が既にあるのか、体が分化していく段階で「思う主体」が生まれるのか。
そもそもそれは、いやこれは何なのだ。思考とか意識とかは脳の働きとされているが、現に自分と感じている自我、自意識はどこから来たのか。
ハードウェア的に現状の医学的なロジックでは、自我を持つ反応をする生体の説明はされていても、それが自我を持っていることについては何ら保証されていないのでは無いのだろうか。
自我を持つ反応をする個体を自我を持つと定義する方法もあるが、それは「私」がどうして「私」と感じているかを全く説明できていない。
この問題は現在の科学の限界を示しているものだと感じる。哲学とかひょっとすると宗教に答があるのかも知れないが、それを証明することは不可能。
と言うわけで、人は、というか私は、答の無い問題を抱えて不毛な思索の時間を無駄に費やしているのでありました。
この、自我とは何ぞや、に答が出たら、今度は自我を持つ反応を示す存在と、本当に自我を持つ存在との相剋という話が出てきそうでちょっと恐ろしい。
こういう思索に少なからず触れているSFは存在し、やはりこの手のことを良く考えておられる神林長平さんの「絞首台の黙示録」で意識についての話が出てきている。まだ読了していないので、どれぐらいの関与かは書けない(わからない)が、意識の主体について考察しつつ執筆したのは確実。
神林さんやっぱり好きだなぁ。