猫砂の掃除に捧げる人生もまた良きかな | うじのブログ

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って、あんまり良くない訳ですが。
猫を飼いだしてから当然猫のトイレのお手入れは日課と言わず毎日何度もやっているわけです。
そんな中で効率化とか考えるのが人の常で、手間とかコストとかかけない方法をぼんやりと模索する。妄想する。
前に書いた自動清掃トイレもそうだが、「汚れた部分だけを排除したい」という気分がある。
一度やってみた(笑)。粗く猫砂スコップで固まった部分を排除した後、ピンセットで汚れた(我が家で使っているのは濡れると青く変色するタイプ)砂を一つずつ取り除く。
なんだか楽しい。たとえばこれが仕事ですと言われて僅かな給料をもらえて一日中やれと言われたら喜んでやってしまいそうな勢い。
どれぐらいの色からが汚れたものか、いかに的確に目的の粒を拾い出すか、結構色々考えつつはまる。
…実際にはこういうのは仕事にならないのだけれど、私の様な社会保障で生かしてもらっている人間にはこういうどうでもいい作業を義務づけても良いのではないかと思う。もちろんその人に応じた作業ということでふる必要はあるかと思うが、ある程度の労働が課せられて「こんなことならもうちょっとマシな作業をしてもうちょっとマシな金額がもらえる方が良い」と向上心が出来ることが重要。
暇を持て余してギャンブルやら嗜好品やらへの依存症になるより圧倒的に良いと思う。
で、ここまでは実は枕であってここからが本題。
人工知能の研究とかやってる人はかなり現実味が感じられる話になってきている様だけれど、機械化が進んで行くと人間のすることは無くなる。芸術とか何とかは残るだろうけれど、そもそも人にしか役立たないものは全体として見ればほぼ無価値と言える。
エネルギー問題と食糧問題、適切な人口抑制その他が解決して、判断も機械の方が優秀になったときにヒトはどういう存在になるのか。
機械は人に作られて人に有利に設計されるだろうから、人の社会が安定的持続的発展的になるように維持されるだろう。人の理想の価値判断が投影されるだろうから、多分他の動物も維持される方向に違いない。
エネルギー食糧社会コストその他が機械により維持されると、人は世界を動かす主役から降板することになる。脳の容量が有限で情報処理能力が有限だから、機械が優位になるのは容易に想像できる。
物理的制約が比較的ゆるい機械と対抗して人が能力を拡張していったとしたら、それはもはやヒトではなくなるだろう。
まぁ、そんな思考過程を経て、タイトルに戻るのだ。
機械が主役になったら人はいかに余暇を有意義に過ごすかが課題になる。
もっともクリエイティブな人達は特殊な階級となってナニモノに対してかはわからないが価値を作り出すだろうが、大半の怠惰な人達は人生を自分なりに楽しむことが人生のテーマになる。
そして猫の世話に喜びを見出す人達がせっせと猫砂の選別をして「今日は良い仕事をした」と満足するのだ。
それはネコに奉仕するだけのヒトというディストピアであり、ヒトが好きなことのみに熱中できるユートピアでもある。
とりあえずは最低限の文化的生活を全世界津々浦々に至るまで、人が送れる世の中の到来を願う。