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トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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60年後の栃木のハッキョは?
1022日・日曜日】
 小山市にある栃木朝鮮初中級学校の創立六〇周年記念イベントに参加した。同日、屋外で予定されていた「ハナフェス東京」が急きょ会場を屋内に変更されるほど、関東一円は悪天候、その雨交じりの強風をはねのけての開催だ。
  
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 写真展が行われた校舎には、「私たちが歩んできた六〇年、これから引き継いでいく六〇年」の大きなスローガンが掲げられていた。創立六〇周年や、七〇周年を迎えた学校が三〇年、四〇年後の「一〇〇年」を掲げたのに比べ、六〇年とは、とても欲張りスローガン。八月の納涼祭に参加した時も感じことだが、やる気がみなぎっていた。
 その場で思いを共にした、心に残ったいくつかの言葉を書き記す。*3と6は金淑子、残りは金日宇による。
 
その1・「先生の家で食べた…」(迎えのバスの中)
 小山駅から学校まで通学バスが二台迎いに来ていた。「…陸上部だった?」、「サッカー部」、「寮…アコーディオンで起こされなかった…」、「先生の家で食べた鉄板焼き凄く美味しかった」、「アサリを…」―久しぶりに会う同級生なのだろう、すでにミニ同窓会が始まっていた。
 
その2・「これからも栃木同胞の心のよりどころとして」(第一部の記念式典)       
 「…一六〇〇余人の卒業生を…学生数が減少し…教育補助金まで停止…民族教育対策委員会が再建され…進む道は困難が伴うだろうが、それを打ち破る無限の可能性がある…これからも栃木同胞の心のよりどころとして…」。趙昌烈校長の記念報告に、激しさを増す雨音をかき消すような拍手がわいた。
 
その3・「最後まであがきたい…」(パネルディスカッション)
「併合になるかもしれない、なくなるかもしれない」と言って言葉を詰まらせた鄭秀哲栃木県青商会会長。会場が静まり返る中、「でも最後まであがきたいのです」と声を振り絞った。青商会だけではできない、皆で心を一つにしてウリハッキョを守ろうという呼びかけに会場が答えていた。
 
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その4・「新入生を受け入れられなかった三年間に胸が痛む…」(パネルディスカッション)
 「…長男を入学させたときは二〇人いたが、一〇年過ぎて一一名に、今年四年ぶりに二人の新入生を迎えた…誰よりも喜んだのは在校生だ。六年生の娘は毎日のように、新入生が可愛い、何でもやってやりたいと…新入生を受け入れられなかった三年間に胸が痛む…」。
保護者の孫和淑さんが、淡々とその心情を流暢なウリマルで語った。「…末っ子も送りたい…ウリハッキョがあってこそ、同胞社会が生きる」と。
 会場には、たくさんの日本人支援者が席を共にしていた。日本語でもと思った。
 
その5・「二〇二三年までに児童・生徒数を二〇人に」(未来プラン発表)
 「二〇二三年までに児童・生徒数を二〇人に増やす」。そのために教育の質を高める、低学年から英語を…ICT教育を、近隣のウリキッキョとの連携を強め…。「学校を幸せのよりどころ」にするための具体的なプランが発表された。
 
その6・「クェンチャナヨ(大丈夫)(公演)
児童生徒一一人のハッキョに四〇〇人が集った六〇周年記念式典、先生や保護者が示す目標はどれも具体的で、子どもたちの公演はのびのびとしていて、特に舞踊のレベルの高さには目を奪われた。ウリマルを習い始めて半年とは思えない初級部一年生二人のやりとり「괜찮아요は会場の笑いをさらった。何が? 勉強に、遠距離通学に、少人数の学校生活だ。幼い二人はそれなりに学校生活をエンジョイしているようだ。

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その7・「輝かしい未来に向かって希望に満ちた…」(記念公演)
 全校生による合唱「輝く未来が私たちを呼ぶよ」と、同胞が合流しての校歌「誇り高き栃木初中」の合唱は力強かった。
 異国の風がいかに冷たくて険しくても/私たちの言葉と文字を誇らしく学んでいく/…/輝かしい未来に向かって希望に満ちた…/立派な朝鮮人に…
 「これからの六〇年」を目指す同胞たちのおそろいの緑色の「勝負服」が格好良かった。

その8・「ソニ! ごめん…」(大抽選会)
 同窓会の発足が宣言され、「統一列車が走る」の軽快な音楽に合わせて踊りの輪が長くのびた。そしていよいよ抽選会。三等の商品券×万円が当たった男性が舞台に拍手で迎えられた。緑色の「勝負服」を着ている。
 感想を求められ、マイクを握るや否や「ソニー! ごめん…これ学校に…」。拍手、拍手だ。そして、大型テレビの寄贈がつづいた。
 この日のイベントのキャッチフーズは「ウリ マウム モア(私たちの心を集め)守っていこう 栃木のよりどころ」だ。そして大型テレビの寄贈がつづいた。
壇上からの「ソニー! ごめん…これ学校に…」、この場を共にした皆が、その一言に、胸を打たれ、心が一つになれたと思った。
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 最後に参加者全員での記念写真。「六〇年」の歩みふり返り、これからの「六〇年後」を目指し、着実に第一歩を踏み出した金太竜実行委員長の笑顔がいつもに増して輝いていた。
六〇年の歴史を振り返って感謝する人、六〇年後を目指し高い山を乗り越える覚悟をする人、それぞれにハッキョへの思いを新たにした一日だったのだろう。

番外編・「私たちは祖国のセッピョルになって」
 祝賀宴の途中、群馬在住の廉数昭トンムが飛び入り出演。栃木ハッキョの前身の北関東初中の六期生(一九六五年卒)だと自己紹介し、同級生を舞台に呼び出すと、当時、運動会の時にうたった、「応援歌」をうたいだした。
 
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씩씩한 북관동의 어린이들아로동당의 기발이 날린다/사회주의건설의 일군이 되여/붉은 피가 다하도록 싸우자손목을 잡고 발굽을 맞추어무찔러 나가세 용기 있게우리는 조국의 새별이 되여 수령님의 뒤를 이어나간다이겨라 이겨라 홍군 이겨라이겨라 이겨라 백군 이겨라
 
 時代を反映した歌詞だ。
現在、栃木のハッキヨを含めて、北海道、東北、新潟、福島、茨城、群馬の七校で「セッピョル学園」が運営されている。歌詞の中の「(セッピョル)」という言葉に、六〇年の学校の足跡に刻まれた、思いを感じた。
廉トンムとは、東京朝高の同級生だ。後日、「応援歌」の歌詞と一緒に短いメモ書きが送くられてきた。当時、高崎から学校があった足利まで六時三八分発の真っ黒い煙をはいて走る汽車で通学した。早朝学習がある時は、五時三〇発、冬は真っ暗で寒かった。朝起きるのがは本当に辛かった。定期代が二二三〇円、中二の時に学校の認可が下りて八三〇円になったものの、パチンコ店で働いていたオモニの月給が三〇〇〇円位、そんな中、よくぞウリハッキョに送ってくれたと、感謝している。
 
*加筆して一一月に刊行する『朝鮮学校のある風景』46号に掲載します。