【3月26日・日曜日】
第二部は校庭の桜の木の下で祝宴が予定されていたが、あいにくの雨。一部の記念式典も祝宴も多目的ホールで催 された。
校舎入り口、受付の左手には「枝川裁判勝利一〇周年祝賀」との文字と、それを取り囲むように貼られた花びらには、児童一人ひとりの感謝の言葉が書かれていた。

「ウリハッキョを守ってくれてありがとう。ウリハッキョに通えて本当に良かった」、「たくさんの方々の支援があって裁判で勝利し、今のウリハッキョがあってうれしい」「…学校があるからウリマルを習うことができてうれしい」。
会場はにぎやかだ。知人を見つけると手招き、立ち話だ。東京中高時代の同級生に手招きされ、前の席に座った。この学校出身の金トンムがいつもの笑顔で話しかけてくる。
壁に貼り出されている卒業生の写真を指差し。「これが…」というのだが、卒業年が合わない。間違いに気が付いたようで、しばらくして「一七期だったのか…」。「東京朝高の同級生とはしょっちゅう会うので、一八期と覚えていたよ…」。
その写真を見上げる。懐かしい名前が並んでいる。男子は東京朝中で同じクラスになったこともあり、すべて覚えていた。何人かは亡くなっているとのことだ。
李花淑校長は記念報告で、埋め立てを終えただけの荒れ地への強制移住と東京第二の創立、枝川裁判の経緯を簡潔に述べた。
「…二〇〇三年一二月、突然、学校用地として無償貸与してきた校舎の一部を取り壊して立ち退くこと、莫大な地代相当金を支払うことを求めて東京都(石原知事)が裁判を起こしました。翌二〇〇四年二月にスタートした裁判では四人の弁護団が結成され、基金の世話人らが民族教育の権利を主張する意見書などを次々と提出。学校を死守しようとする同胞たちは広範な日本の支援者や南の同胞たちとともに、裁判を果敢にたたかい、二〇〇七年三月に、終結に至ったのです。」
「学校創立八〇周年の筋目の年の翌年には、枝川裁判勝利二〇周年を、枝川裁判勝利四〇周年の前年には、学校創立一〇〇周年を迎えることになるでしょう」との締めの言葉には、笑いとともに、大きな拍手が沸いた。
つづいてあいさつに立った、枝川基金の共同代表の田中宏共同代表と当時の弁護団の一人、金舜植弁護士も述べたように裁判の結果は「勝利的和解」。その四年後には、新校舎が落成した。また、現在行われている「無償化」裁判に対する韓国と日本の市民団体によるサポートなどは、「枝川裁判」の流れを汲む。

全校生による祝賀公演や、感謝と決意表明もよかった。少人数ながら児童の歌声が会場に響き渡り、のびのびと踊る、児童の可愛いしぐさに、スマホが向けられていた。児童たちは多くの同胞と日本人によって、自分たちの学びの場が守られているということを幼い心にはっきりと刻んでいるようだ。
二部の宴会の冒頭、基金から二台目のスクールバスが贈られた。卒業式を終えたばかりの卒業生が「登校」し、金色に光る大きなキーと記念ボードを受け取り、基金の代表に感謝の花束を手渡していた。裁判終了後も、運動場の遊具や多目的ホールの仮設舞台など、基金が引き続き学校支援に取り組んでいるとの報告に感謝の拍手が。

別件で「早退」。裁判当時、密着取材した韓国人記者や支援団体の話を聞けず残念だ。
石原都政が裁判を起こさなかったら、立派な新校舎は建たなかったのでは、その一方、朝鮮学校を取り巻く状況は悪化するばかりだが、これを突破したらまた新たな何かが…。
駐車場の真新しいスクールバス「未来号」を見ながら、同じテーブルに座った、基金のメンバーのくじけないそんな言葉が思い浮かんだ。
裁判勝利二〇周年、そして学校創立一〇〇周年を目指しての新たなスタートを切る、そんな集まりだった。
