「ぼくらの旗」の筆者が母校に | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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「ぼくらの旗」の筆者が母校に

【2月28日・水曜日】
 校長室に入ると、朴基硯さんと慎校長の二人はすでに歓談していた。テーブルの上には、一月にソウルで翻訳出版された「보꾸라노 하타우리들의 기발」が、隣には「シリーズ・朝鮮学校の歩み」の中で上中下の三巻本として弊社が刊行した「ぼくらの旗」が置かれていた。

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朴さんは「ぼくらの旗」の筆者で、東京朝高の6期生、同書は「君はあの頃(都立)の東京朝高生を知っているか?」との副題にもあるように、東京都立当時の様々な出来事を小説形式でつづった体験記だ。
「卒業生として、母校に何かしたかった…一〇年前に本を出して、五年前から翻訳がすすみ、出版社も二、三社名乗りを上げたようだが…ようやくハングルで出版されることになって…」
「梶井先生の『都立朝鮮人学校の日本人教師』は、当時を知るうえで大切な記録…朴先生のこの本は生徒の目線での生活史…一つひとつのエピソードがとてもリアルで…」
「当時の在校生からたくさんの総連幹部が…帰国した同級生にも有名人か多い…サッカー部だったリトンムは共和国でナンバーワンのサッカー解説者に…金正恩委員長の隣に座って解説する写真も…香港経由で帰国した金トンムは金日成綜合大学の教授に、国への貢献が認められ高層アパートで余生を…」
「同窓会誌に『七〇年史』を連載しているが、都立の時代はこの本が…南にもウリハッキョのことが知られるきっかけになれば…本を読んで『現地』を訪れたいという人が現れれば…」

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校長室と図書館に一組ずつ保管されているとの話に、朴さんの表情はさらに、ほころんだ。一〇年前に「ぼくらの旗」を読んだという慎校長と朴さんの話は弾んだ。

 「芥川賞候補にもなったという、安岡伸好について取材を重ねている、『西日本新聞』の記者が来た。安岡さんの父が都立時代の校長で、彼自身も教壇に立っていたというので…記者にもこの『ぼくらの旗』を…」
 「それでですか…うちの事務所にも訪ねてきました。安岡校長が敗戦と同時にGHQの占領下におかれた奄美の出身だということは初めて知りました。」

 『西日本新聞』の連載記事によると、安岡伸好は、都立朝鮮人学校での体験を基に「民族の城」(54)と「遠いい海」を出版している。


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記事は次のような文で結ばれていた。
「この時代から六〇年以上が経過してもなお、朝鮮半島は分断状態で、朝鮮人学校高校無償化から外されるなど取り巻く状況に出口がないままだ。
 校長の慎に安岡の小説を読んでもらった。『当時の日本人教師の葛藤がよく伝わってきた」と感想を述べた後、こう漏らした。

 『彼らが今の朝鮮学校や日朝、日韓の関係をみたらどう思うのでしょうね』」(連載7=1月18日付)

 朴さんは慎校長がスクラップしていた、その記事を何度も読み返していた。
 運動場からは、生徒の元気な声が聞こえてきた。校長室の前の廊下も騒がしい。休み時間のようだ。
 

 「長居してしまって…楽しいひと時でした」。朴さんは、母校の同窓会誌「プリ」の創刊号から最新号までの七冊と、『西日本新聞』の連載「『はざま』生きて 忘れられた作家安岡伸好」のコピーを大切そうに持って立ち上がった。
母校に寄贈した二組の翻訳本には、「贈呈 母校の後輩たちに 中高六期生 パク・キソク(旧名パク・ウンイル) 2018・2・28」という文字が記されていた。

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「ぼくらの旗 君はあの頃(都立)の東京朝高生を知っているか?」は、綜合企画者ウイル(現、一粒出版) から二〇〇八年に上中下の三分冊で、刊行された。

二〇一四年二「都立朝鮮人学校の日本人教師―1950~1955」の再刊に際しての解説で、「貴重なドキュメント」と紹介されたが、現在在庫切れである。
ソウルで出版されたハングル版の「보꾸라노 하타우리들의 기발」は、そのダイジェスト版である。上下で三千ウォン、三月一〇日から「一粒出版」にても取り扱う。価格は未定。

*加筆して3月下旬に刊行する『長ん学校のある風景』48号に載せます。