「常緑会」の忘年会に招かれ | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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 「常緑会」の忘年会に招かれ

【2017年1214日・木曜日】

 東京朝高当時の朴先生に誘われて、「常緑会」の忘年会に行った。

 「常緑会」については、会の発足に奔走した故柳光守氏から聞いたことがある。いつだったか、人権協会の何かのイベントだったと思う。「イルウトンム…雑誌見たよ。良いところに目を付けた…継続は力なりだ…」と、励ましの言葉をかけてくれた。雑誌とは言えない、百ページに満たない『朝鮮学校のある風景』だった。そのとき、「常緑会」の話を聞いた。第一線を退いた一世の活動家の集まり、まさかその場に招かれるとは思ってもいなかった。

 会場の分会の事務所に行くと、玄関にたくさんの靴が整然と並んでいた。何人かの小規模の集まりではなさそうだ。二階からは「○〇トンムからは少し遅くなるという連絡が…」、「来ると言っていた彼は…杖をついているから…」。そんな声が聞こえてきた。

 「ケシムニカ?」と、声をかけて階段を上がっていったが、だれがいるのか分からない、入りづらい。

 恐るおそる顔を出すと、いきなり「遅いじゃないか」。分会事務所の主の姜先生が大きな声で迎え、皆に紹介してくれた。

 「知ってるだろ…新報社にいた…」、「朝高のギャングの息子だよ」

 一四、五人、みんなどこかで見かけたことのある元イルクンたちだ。

 アボジと一緒に解放直後、東京中高で教壇に立っていた先生が懐かしそうに声をかけてくれた。

 朝大時代の学部の玄先生が司会進行を務めていた。

 「…〇〇トンムと九〇代の〇〇が亡くなった…年々平均年齢が若返っているのでは…」、「今年の一文字は『北』、安倍は『挑』と言っていたが、われわれの一文字は…」、「不安な一年だったが、新年はそれも断ち切り…」。そんな話にみながうなずいていた。三月と七月には朝米関係をテーマに懇談会を催し、一〇月には米寿を迎えた三人の祝賀会を行ったことも報告された。話は「みなが病気持ちであるが、それ負けず健康に…」という言葉で結ばれた。

 十月の米寿の祝いに参加できなかった朴顧問が紹介され、記念品が渡された。

 一九二九年七月一七日に生まれ、一九四三年、一四歳の時に渡日、上智大の英文科を卒業し、留学同、朝青、東京第一と東京中高で長らく教鞭をとり…。朴顧問は、「話したいことはたくさんあるが、困難な時代、自分を忘れず信念を曲げずに実直に生きていこうと…」と短くあいさつ。在日一世の専従としての五〇年の活動の重み、気概がひしひし伝わってきた。

 ファソン14号打ち上げによる「一一月の大事変」の意義を強調しての祝杯、そして騒がしい懇談とカラオケタイムとなった。

 「米寿とは八八歳…百寿に向かってパルパル(元気に)飛べ…とのこと…まだまだこれから」だと言いながらも、「組織から何も任されないのが寂しい…」という本音も。


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 「トンムは일소일소』、『일노일노という言葉を知っているか」との質問も。「일소일소」とは「一笑一少」で、「일노일노」とは「一怒一老」とのこと。「怒らず」、「笑って」生きようということのようだ。

 同胞社会の礎を築いてきたと自負する「老幹部」たちによる「常緑会」、こんな「頑固者」たちが最も期待を寄せていたのがウリハッキョであり、そこに通う孫たちだった。

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 帰途の車中、忘年会で配られた二年前に亡くなった柳光守顧問の追悼文を読み返した。

 この「常緑会」の言い出しっぺは柳顧問で、活動は十数年続いているとのことだ。追悼文には「…この『常緑会』のユニークなところは、なにかしら専門的な知識や、優れた才能・技能をもつ高齢者が多く、かつては活躍していたが今は居場所がなく、寂しい思いをしていた人たちが集まっていることである」とか書かれていた。

 在りし日の柳光守氏が思いうかんだ。

朝鮮新報社に入社し、総連中央の社会部担当記者になったとき、何かと面倒を見てくれたのが柳氏だった。(まだ指導員だったので、リュウ・グァンストンムと呼んでいた)入社二年目、九州の朝鮮人強制連行調査団に同行した時、かれは「朝鮮時報」(日本語版)出身ということもあって、「先輩」として取材や執筆に適格なアドバイスをしてくれた。社会局長となり、在日本朝鮮人人権協会の会長になった後も、大会場などで会うと「イルウトンム」と、親しく声をかけてくれた。公の場では「局長同志」、「会長」、「顧問」と呼んでいたが、二人になると「リュウ・グァンストンム」だ。そんなことを許してくれた気さくな人だった。