「サランの会」月例会で東京第九へ
【4月14日・火曜日】
「阿佐ヶ谷朝鮮学校サランの会」の発足後、運動会と学芸会、夜会、公開授業と一日給食など、この三年間、東京第九にも足繁く通っているが、迷いそうになる。雨の日はなおさらだ。「駅からはどういったら?」と聞かれても、道順を教えることができない、道幅が狭く、入りくんでいて、タクシーに乗ってもたどり着けないと思う。
住宅街をくねくねと曲がって行くと、道の突当りに三階建ての校舎が見えてくる。いつもながらほっとする。
七時。教員室にはまだ灯りが。「私のことは、書かないでくださいよ…」と、いつも笑顔で迎えてくれた教務主任の趙先生と会えなくなったと思うと寂しい。新学年度からは江東区の東京朝鮮第二初級学校に異動していったのだ。確か、四~五年前、東京第三に教育実習に来て、卒業後、新任として赴任した先生は退職したとのことだ。「舞踊部はだれが…?」。そんなことを思いながら、ぬかるんだ運動場を横切り校舎に向かった。
教員室では、長身の男性の先生と、三人の女性の先生がパソコンに向かっていた。
月例会では、まず新しく赴任した二人の先生が紹介された。一人は茨城のウリハッキョから、もう一人は今年、朝鮮大学校の教育学部を卒業した新任だ。東京第九の卒業生で、昨年教育実習で来ていた。東京第四から赴任してきた教務主任は所要で外出したようだ。
メインの議題は、五月の総会の準備だ。案内はがきの送付、第二部の講演会を含めたチラシの作製、式順、会計監査、看板に…ワンコイン懇談会のメニュー。内容確認と作業分担が細かく行われた。

それに新学年初の一日給食。メニューはハヤシカレー。鶏のから揚げもという意見が出されたが、予算オーバー。それでも子どもたちが喜ぶ顔がみたいと、から揚げを付けることになった。
月例会では、会員の拡大のために『60万回のトライ』の上映会が提案された。賛成多数、すると上映予定日と会場確保まで話が一気に進展し、九月上旬上映の見通しが開かれた。
××
雨足はさらに強くなっていた。
校門を出ながらふと、西神戸のハッキョのことが思い出された。
新報社に入社した年の秋だ。編集局の朝礼が終わると、デスクに呼び出された。「イルウトンム…これ…」といって差し出されたのは、西神戸のハッキョの先生からの手紙だ。「秋の読書週間ということで…記事に…」
手紙には、児童たちが読書に熱中しているということが、事細かに書かれていた。
百字の原稿用紙に整理し始めると、デスクがまた「イルウトンム」だ。先生に会って、直接話を聞いて来いというのだ。初めての出張はこうして決まった。それは同時に、記者としての「独り立ち」を意味した。当時、新入社員には三年か、四年上の先輩がつく。取材は担当の先輩と二人一組で行く。書いた記事はまず、その先輩が点検しデスクに提出する。新米記者もそうだが、担当を任された先輩たちも緊張の日々を送っていた。新米記者が書いた原稿の責任は、すべて担当の先輩記者に負わされたからだ。
経理部から仮払いしてもらった一万円札を握って、飯田橋駅に向かった。「いよいよ地方出張か」。あのドキドキ感は今でも忘れられない。
昼過ぎに学校に着く。担任の先生は、手紙を読んでわざわざ東京から取材に来てくれたと大喜びだ。親切に話を聞かせてくれた。写真を撮って、夕方にはとんぼ返りで東京に戻った。取材した翌日、朝礼の前にデスクの机の上に原稿を、それが鉄則だった。
その日、一日落ち着かなかった。夕方になっても原稿を見た形跡がない。翌朝、朝礼が終わると、デスクが一言。「取材に行ったのか? もう一度…」。自分の席に戻って、書き直していると。「トンム…もう一度というのは…もう一度話を聞きに行きなさいという…」。
再び西神戸のウリハッキョへ。担任の先生は「昨日帰るといっていたのでは…」と。恥ずかしくてそれ以上話を聞けない。「写真を撮り直しに…」。そんな言葉で切り抜けたと記憶する。
翌朝、デスクに書き直した原稿を見せると「トンム…」。あとの言葉は覚えていない。もう一度行って来いというのだ。
新幹線に乗って、学校に行ったが、とても校門をくぐることはできなかった。校舎に向かって一礼して戻って来た。
新報社が移転する前に、その記事を見に行こうか…。
東京第九に行くたびに、一階から二階につづく踊り場に貼り出されている新刊書の紹介コーナーを見るのが楽しみだ。読書つながりで、四〇年以上前のほろ苦い思い出がよみがえったのだろうか。
そんなことを思って駅に向かっていた。曲がる角を間違えたのだろう、少し遠回りしていた。