<番外編>京都コリアンカトリックセンター
【12月1日・月曜日】
雨の中、連れ合いと京都コリアンカトリックセンターへ
日本の学校に通っていた連れ合いが中学生まで行っていた所、「懐かしい」というので、二人で訪ねることにした。
JR円町駅で下車して、「京都の道は碁盤の目のようになっているので分かりやすい…天神川の川辺だから…」と言いながら歩き出したが、方向違い。生まれながらの方向音痴だ。
子どもの時は、京大のある百万遍まで歩き、2番の市電に乗った。その後も何回か行ったが、円町駅から歩くのははじめてとのことだ。しばらく行くと、川の向う側に十字架が…「あの黄色い建物…」。人は懐かしい場所に近づくと、その場に引きつけられるように、足取りが早くなるようだ。庭の植木には人手が入っていなかった。荒れた感じで、人影はない。自動車が置いてあったので、声をかけてみた。
「子どものころに通っていて…懐かしくて…」と、インターホン越しに話しかけると、管理を任されている信者さんが、快く招き入れてくれた。


お御堂へ。60人は座れる広さだ。「昔はもっと広かったような…」「信者さんがあふれていた…」。しばしたたずむ。豪快に生きたという彼女のハラボジ、恋愛結婚をしたというハルモニの話が思い浮かんだ。当時としては珍しかったはずだ。ハラボジもハルモニも孫(連れ合い)も幼児洗礼させた敬虔なカトリック教徒だったようだ。

結婚して日本に来たという管理人の女性は、子どもが幼稚園に通っていると言っていた。管理を任されて日も浅いようで、センターの生い立ちについては詳しくわからないようだ。差し出された「50年記念誌」を通じて、このセンターが1956年6月に「献堂」したということ、前日に入った大津の墓地も同じ年に「獲得」し、一、二世の信者さんたちが土地を拓いたことを知った。
連れ合いと管理人さんの話の中で、チャンイン(義父)とチャンモ(義母)はここで出会い、ここで結婚式を挙げたなど、初めて聞くエピソードも少なくなかった。チャンインは12人兄弟の長男、チャンモは9人兄弟の末っ子。連れ合いはクリスチャンの家系の大家族の中で育った、神父やシスターになったおじ・おばもいて、ウリハッキョに通ったのは連れ合いと妹と弟だけだ。朝鮮学校に転校させるときは「집안에서 빨갱이가 났다(一家からパルゲンイ=アカ、共産主義者が出た)」と、大騒ぎされたという話を聞いている。
60歳で他界したチャンインは写真でしか見たことがない。チャンイン、チャンモが足しげく通ったというセンターに来て、その面影に触れられたようで気持ちが少し高ぶった。日本の学校に通いながらも、一世のハラボジ、ハルモニの訛りの強いウリマルを耳にしながら、故郷の風習の中で育った幼い時の連れ合いの姿も想像でき、心和むひと時でもあった。

「50周年記念誌」の白黒の集合写真には、
連れ合いの祖父母の姿も映っていた
敷地には、モルタル2階建ての建物と、今は留学生の女子寮になっている3階の建物が建っている。過ぎし日、京都の同胞コミュニティーの中心の一つになっていた面影が残っているが、後継者の育成には苦心しているようだ。
神父やシスターが常駐していない。日曜には、京都教区の神父が来てミサを執り行うが、参加者のほとんどは留学生だという。高齢になった一世たちは一人で来られない。洗礼を受けた二世、三世も少なくないはずだが、訪ねてくることはない。それでも水曜日には、一世、二世の高齢者のためのミサと昼食の場として、「サラン(愛)房」が設けられている。
「サラン房の日だったら…知っている人と会えるのでは…」。
「子どものときだったから…それでもアボジ、オモニのことを知っている信者さんはいるはず…」
そんな言葉を交わし、センターを後にした。このままではセンターに集った在日朝鮮人の歴史は消えてしまうのではないかと憂いながら…。
