【10月10日・木曜日】「総連北支部十条分会 笑酎会100回記念祝賀モイム」でした。といっても、ホテルのパーティー会場ではなく、いつものJR十条駅前の居酒屋の一室です。
7時集合。20分前に着くと、すでに2人がホッピーを飲み始めていました。集合時間を間違えてきてしまったという、地元の東京朝高の慎校長と教育会の呉会長です。会費持参で招いたゲストです。
十条分会の中心には、東京朝高の教職員宿舎「モラン寮」がありました。イルクン22所帯、70人が居住していた、その「寮」が、2005年に閉鎖に。多くの人々が引っ越していき、「分会」の存続が危ぶまれたと言います。そのとき、「声を上げ続けて行こう」、「定期的に集まる場所」として、スタートさせたのが「笑酎会」だったといいます。今は毎月第一木曜日・7時からですが、水曜日のときもあったようです。
こうして、1955年総連結成以後、月一回以上の分会のモイムを一度も欠かすことなく行ってきた、分会の「伝統」は守られたのです。
今回は第一木曜ではなく、第二木曜でした。「体育の日」ではなく、〇〇の日に合わせて10月10日になりました。100回と言いますから、8年続いたことになります。

私は電車で一つ隣の分会ですが、3年前、十条分会に発足した「年相応、無理をしない・させない」「ウインブルドンを目指さない」テニスクラブでラケットを振るようになり、「笑酎会」でもグラスも交わすことになりました。
祝杯は、ただ「チュッペ」ではなく、もちろん流行りの「ウィハヨ」なんかではなく、「200回を目指そう」でした。
この日は、東京都本部の黄委員長も「100回」のお祝いの席を共にしました。「愛族愛国の志を受け継ぎ…」「同胞がいて分会がある。分会があって支部がある、支部があるから本部がある…」と、あいさつ。もちろん、「祝賀文」についてもふれていました。一杯が二杯、×杯目になると、16歳から22歳の多感な時期を「モラン寮」で過ごした元「寮生」に、公人ではなく完全に詩人ではなく、私人に戻っていました。大きな声で笑い続けていました。

「皆勤賞」の顧問は、「体調がすぐれない」と、「分会費」だけ納めて帰りました。「富士山」が見えるところで働いているイルクンは、「まだ仕事が残っている」と、30分して職場に戻って行きました。副分会長です。
鄭分会長から慎校長に、上質のコピー用紙2万枚が贈られました。「ハッキョ サラン」運動の一環として、分会からのコピー用紙のプレゼントは3年続いています。
その様子を「朝鮮新報」の記者が何枚もカメラに収めていました。「ただの飲み会でなくてよかった…これで記事になる」と、思った瞬間かもしれません。
はじまるなり、写真を何枚も撮っていました。分会長の隣に座って長い時間、話を聞いて、席を移しながら「笑酔会」の幹事長、テニスクラブの監督、一番若い50代の同胞のコメントを取って…。焼酎よりビールが好きなようでしたが、そのビールを飲む暇も、食べる暇もなく…。私も「横に座って飲んだら」と誘いっておきながら、話しかけて、飲むのを邪魔してしまいました。彼が誰もが知るインテリゲンチャの孫だというので親しみが増したのかもしれません。政経学部卒の3年目だと言っていました。
分会費が入った封筒を渡したり、公演の日程を歌劇団のスタッフに聞いたり、「情勢」の話に耳を傾けたり…。若者が集う場も必要ではないかとの話もでました。このまま200回まで行くと、半分はいなくなって、自転車で来ることもできなくなっているかも。いつものように言いたいことを言い、語りたいことを語り、大声を出すわけでもなく、「笑って」、「酔って」、2時間が過ぎました。
「100回記念」の抽選会も予定されていましたが、途中で退席者がいたので次回に延期、そのころには平壌に行っているイルクンも戻ってきているはずです。
鄭分会長に「私の東京朝鮮中高級学校物語・モラン寮編」の原稿を依頼しようと思ったのですが、打撲で右手が不自由、それでも「一か月かけて、少しずつ書く」との確約を得ることができました。