2011年・福島ウリハッキョ除染-下 | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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ありえないことだらけ。
2011年7月24日(日) 晴れ。大規模ボランティア除染当日。
午前4時40分。
... 私は、郡山駅前ロータリーに停めた車の中にいた。
きっかけは、フェイスブックのメッセージだった。
大阪から、東京を経由し、夜行バスを乗り継いで、福島まで自費で取材し、
除染に参加したいとの連絡を受けたからだ。
いま、思えば、自分でも不思議だ。
だって、一度も、あったことがない人を、朝の四時から、待つなんて、
普段なら、ありえない。
ただ、これは、ありえないことだらけの大規模ボランティア除染の幕開けだった。
その人は、強烈だった。なにわのパワフルおかん、そのままだった。
いまだから言えるが、実は、正直、私は、その迫力にびびってしまって、
萎縮しきっていたが、
まずは、取材第一と、誰もいない早朝の福島ハッキョにむかった。
大阪育ちの記者と神奈川育ちの私が、早朝の福島ハッキョに、なぜか、そろっている。
フツーならありえない。
被ばくのリスクを顧みず、
ありのままの状態を、精力的に、写真に修めていく記者魂に、
プロ根性を感じた。
ふたりで、広大な福島ハッキョをまわりながら、
じりじりと、気温だけが猛烈に上がっていくことが実感できた。
そういえば、一緒にタバコを吸っていたときに、
キツツキのコンコンコンと、樹をつつく声だけがこだましていたのが、
何故かしら、印象に残っている。
自然は、なにも、かわらないんだなと、思ったりした。
と、同時に、今日、いったい、何人のボランティアがきてくれるだろうか
ということばかりが、気になっていた。
今日を逃したら、セシウムが、土壌に浸透してしまう。もう、間に合わない。
当時は、誰にも、言わなかったが、焦ってもいた。
ギリギリだった。
時間が経つにつれ、焦る気持ちばかりが、募っていた。
福島県にぽつんと残された福島ハッキョ。
そこに、ちょこんと座っているふたりぽっち。
心細さが、最高度に達しているなか、

午前7時20分。
遠くから、クルマのエンジン音とともに、私の名前を呼ぶ聞きなじんだ声が。
最初に来たのは、忘れもしない神奈川ハッキョのソンセンニム達だった。
そして、間髪つけずに着いたのは、同級生夫妻だった。
私から、連絡もなにもしていないのに、ただ、私のフェイスブックをみて、
来ることを決意したと。
私は、なんとも、いえなかった。ただ、ひたすらに、うれしかった。
 
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35歳未満、お断りのワケ。
2011年7月24日。晴れ。猛暑日。大規模ボランティア除染当日。
午前8時。
... 最初は、二人しかいなかった、福島ハッキョに、
全国各地から、
続々と、青商会を中心とするボランティアが集った。
職業の別を超え、国籍を超え、民族を超え、地域を越え、
ただ、ひとつ、若木のために。
広大な運動場は、クルマで埋まり、
玄関前ホールは、人であふれた。
青商会が、ネットワークを、活用しまくり、フェイスブックでよびかけ、
無償で、自分のブログで情報発信し続けてくれる同級生や有志のおかげで、
130名を超える人々が集まった。
高校卒業以来会う人、大学卒業以来会う人、初めて会う人のになぜだか旧知のような人。
ボランティア受け容れ能力を超えたため、
正確な数と、参加者名は、残念ながら、把握できなかった。
そして、ひとつだけ、約束事があった。
それは、低線量被ばくの影響は、いまだ、解明されていないため、
放射能の除染にあたっては、35歳未満は、お断りする
ということだった。
35歳という年齢に科学的なデータがあるわけではなく、
端的にいうと、子作りが、おわっている世代からの任意の参加を募集する
という趣旨で、聞きようによっては、残酷なモノだった。
したがって、大学生からの熱烈な参加希望は、
やむをえず、すべて、拒否した。今後も、この方針は、維持される。
そして、線量が、落ち着いたいまでさえ、除染従事者には、
国から、1日当たり1万円の除染手当が支給される。
事故後、3ヵ月の当時は、おそらく、2~3万円の除染手当が支給されていた。
東京-福島間の自動車での往復の交通費(高速道路・ガソリン代)を2万円として、
ボランティアの日当が仮に1万円で、これに除染手当2~3万円が加算されると
少なくとも、1人当たりの費用は、4~5万円になる。
逆に言うと、ボランティア1人あたり、4~5万円の寄附をしながら、
被ばくのリスクを顧みず、労働に従事したことになる。
そんな大規模ボランティア除染は、激闘のはじまりだった。
激闘の内容については、すでに、多くの参加者から、語られている。
ひたすら、大地を削って、削って、削る作業。
手の皮がやぶれ、血がにじんでも、それでも、スコップを振るう。
かんかん照りの太陽のなか、上下レインスーツに身をまとい、
体内の熱の逃げ場がなく、熱中症にかかるボランティアは、10名を超えた。
医療スタッフが、応急手当をする。
最大の激戦は、第1次除染の際に、高線量が測定された体育館側溝だった。
5マイクロシーベルトを超え、東京の100倍だ。
幅30センチ、深さ50センチ、体育館の外周およそ90メートル。
すべて、大粒の砂利で覆われている。
これを取り除き、運動場隅の放射性汚染物質仮置き場にかついでいく。
あとで、分かったことだか、大熊町の町役場の側溝の砂利を
自衛隊の化学防護部隊が取り除くのに、2週間かかった。
それを、たったの1日で、取り除かなければ、次はない。
全ボランティアを投入しての、地獄の作業がはじまる。
ある参加者は、おもわず、「炭鉱労働だ」と、うめいた。
後がない、ギリギリの状況での、大規模ボランティア除染が、
大詰めを迎えていた。
ただ、130人以上が、ひとつになった。
そして、側溝の砂利、すべてが、たった1日で、取り除かれた。
第1次除染から、ギリギリの状態が続いたが、
紙一重で、間に合った。
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熱中症患者。
2011年7月24日(日)。晴れ。猛暑日。大規模ボランティア除染当日。
午後3時30分。
... 早朝3時に起き、苛酷な暑さのなか、ふんばっていたツケが回り、
その日、もっとも、重傷の熱中症患者として、
医務室に強制的に担ぎ込まれたのは、
実は、私だった。
防護服を脱ぎ、体温計で測ると、39.7度の高熱。
すぐさま、医療班によって、体温冷却措置をとられ、
全身を氷嚢でくるむものの、一向に熱が下がらず。
まさかの救急搬送の事態か。
ボランティアで避けるべきは、怪我人、病人。
と、いいきかせ、かろうじて、意思の力で、踏ん張る。
ただ、ボランティア全員との閉会式に、参加できず、
大阪から来てくださった記者の方達を
お見送りをできなかったのは、悔やまれた。
自力で、クルマを運転し、大学の研究室までたどりつき、
ひたすら、ポカリスエットをお水で、割って飲み、
外国人学校に対する除染費用の補助に関する資料を食い入るようにみていた。
実は、翌日、県庁の担当課と、ガチンコのの交渉が控えていたのだった。
除染費用を、自腹で支払えなんて、おかしいでしょう。

※写真は、セシウムを吸い取るといわれ、全国から送っていただいた菜の花のタネ。
 
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私の視点からみた一連の震災アーカイブ事業も、
終わりとしたいです。
..ひと言で言えば、
震災以降、いつも、ギリギリの状況でした。
みなさんの支援と応援をいただき、
偶然と偶然が、重なって、
なんとか、紙一重で、乗り越えてこれました。
それは、いまも変わっていません。
フクシマも、紙一重です。
私自身も、紙一重です。
そして、おそらく、全国のウリハッキョが、
『紙一重』
なんだと思います。
だからこそ、できることを、やろうと、思います。
みなさんとのご縁とご支援に、感謝し、
一歩ずつですが、前に進んでいきます。
最後に、
福島ハッキョ校舎に、いまも、飾られている言葉を、写真として、掲げます。

(以上で、私の視点からの震災アーカイブは、いったん、終了いたします。ご精読ありがとうございました。)