【11月26―27日】京都と大阪・2日間の「ウリハッキョ」巡り-その4
大阪府庁前でのビラ配布を終えて、東成区の中大阪朝鮮初級学校に向かった。
2月に同校にオープンした、「民族教育歴史資料館」を見学するためだ。
「火曜日行動」の「常連」で、ブログ・fbによる「広報担当」の許さんが案内してくれた。
「タクシーに乗って、○○方面に向かって、○で曲がって…ガソリンスタンドの前で…」
地下鉄今里筋線と千日前線の2つの駅の中間あたりになるようだ
自転車で「追いかける」というより、先に行って「待っている」という風で、いつもの元気な許さんの勢いに圧倒された。
4階建てのずっしりとした建物だ。校舎の看板は、「中大阪朝鮮初中級学校」となっていた。中級部は6年前に休校となり、現在は幼稚班と初級部の児童が学んでいる、「幼・初」校だ。

しばらくすると校長室に、大阪を拠点に各地のウリハッキョなどを取材しニュースを発信している「コマプレス」の朴記者の姿が。韓国人から見た在日同胞社会、ウリハッキョの話は、とても機知に富むものだった。
「何もかも新鮮だった」と言っていた。「今はなき韓国の原風景が息づいている」とも語っていた。
「学校での先生と児童、児童・生徒同士、先生と学父母、学父母と学校、学校と地域社会、共に思いを寄せあう姿に魅了された」とも。
そして、何よりもウリハッキョの児童・生徒の誰もが「제자리(チェジャャリ)」、自分の居場所を持てる幸せについて繰り返していた。
また、各地に点在している大小のウリハッキョが全国の同胞社会と強い絆で繋がっていることには驚いたようだ。それは、3・11大震災時、被災地で取材をしながら「強烈」に実感したという。
下校時間が近づいたのか、廊下が急に騒がしくなった。

玄関から運動場にぬける床に、ランドセルとポット、上着などが雑然と並んでいた。交通安全の黄色い帽子が、黒いランドセルの下敷きになったり、近くに放り出されたりしていたが、赤いランドセルの上にちょこっと載っていたり。

男女の児童が広い運動場を走り回ったり、ボールを追いかけたりしていた。
落ち葉が舞っているというのに半そで、子どもたちは元気だ。

しばらくすると、運動場で遊んでいた児童が続々とスクールバスに乗り込んでいた。
黄色い帽子を被ったのは1年生で、黄色いバックをさげているのは園児のようだ。上級生なのか、帽子を被っていない児童もいた。寒さも増しているというのに、上着を着ていない児童がとても多かった。
バスの運転手は「みんな近所の子たち」なので「親が家にいる時間に合わせて、周辺を何回もまわっている」と言っていた。
遠方の児童の送り迎えをする他のウリハッキョの「通学バス」とは違うようだ。

玄関の窓には、「2013年度生徒・幼稚園児募集」のポスターが貼ってあった。府下9か所の幼・初・中学校の案内である。そういえばこの頃東京では募集ポスターを目にしなくなった。

低学年の下校を見送って、校舎3階の「資料館」へ。「コマプレス」の朴記者も「初めて見る」と同行した。
校舎の3階、廊下にはベニヤ板に「民族教育資料館」の張り紙、いかにも手作りといった感じだ。

教室、丸ごと一つが資料館だ。まず、目に飛び込んできたのは、メッセージで埋まった黒板だ。
「마음을 계승하자(心を繋げよう)」、「아이들의 미래를 위해 우리 학교가 이어지기를(子どもたちの未来のために私たちの学校が存在し続けることを)」、「함께 가자 같이 미래를 만들자(共に進もう、一緒に未来を育もう)」-卒業生か地元同胞のメッセージであろう。「민족의자존 을 견결히…(民族の自尊心を固く)」、「자랑스럽습니다(誇らしいです)」-ソウルからの来校者のメッセージもあった。
「がんばって、えがおをわすれないでください」、「おうえんしています」、「いつまでも仲良くやりましょう」-日本名のメッセージも書き込まれていた。多くがひらがなで書かれていたのは、小学生にも読めるようにであろう。
資料室を一周すると、解放直後に開設したいくつかの「朝鮮語講習所」を母体に1948年1月の東成朝鮮学園として開校し、現在に至るまで道のりが一目でわかるようになっていた。
資料室は、昨年催された東成同胞フォーラムで語られた地域同胞社会の過去・現在・未来を常設展示することによって、ありのままのウリハッキョを発信しつづけようというものだと、金校長が話してくれた。毎年、卒業生の写真は補充されるが、年に何回か、展示物も更新するらしい。

中大阪のウリハッキョは、1948年の朝鮮学校閉鎖令によって、1950年に大阪市立本庄高校の西今里分校となり、1951年4月には大阪市立西今里中学校(西今里朝鮮中学校)と改称され、1961年9月に自主学校、中大阪朝鮮初中級学校として新たにスタートした。
「西今里」は朝鮮読みで「ソグムリ」、とても懐かしい響きだった。朝大在学中、大阪に社会実習や教育実習に来た時、同胞たちは「ソグムリ」、「ソグムリ」と呼んでいた。聞き返すと西今里のことだったことが懐かしく思い出された。
1970年代まで、同胞社会で、東京は「トンギョン」、大阪は「テパン」、広島は「クァンド」と、日本の地名を朝鮮語読みしていた。東京第1の前身は「ファンチョン(荒川)学院」と、呼ばれていた。

モノクロの写真には、度重なる苦難を退けながら、未来に向かっていた同胞、学父母、児童たちの希望が映し出されているようだった。1970年代、80年代のカラー写真は、一言で「승승장구」、「最盛期」を物語っていた。1990年代以降の数々の写真からは「新たな試練」にめげることなく立ち向かう誇らしい姿を読みとれた。

資料室の中ほどに「コ」の字に囲まれてた一角がある。四角い穴が開けられた空間からは教室内の展示物が見え隠れするのだが、ある所にとどまって見ると、左からハングル文字で「우」「리」「학」「교」の4文字が浮かび上がるようになっていた。
金校長は、観覧者が一回りして、この一角に立つと、「ウリハッキョ」への思いを新たにするようだと語っていた。
私も黒板に「東京にもこのような場があればと思います」、連れ合いは「平和で自由で、仲むつまじい同胞社会の未来のために○○○○」との「思い」を記していた。

資料室を出た前の窓にハングルで「給食室」との手書きの紙が貼り出されていた。
校長は「月に2回、オモニたちが交代で頑張ってくれています」と。2日後がその給食の日だった。
「中級部がなくなり単設初級部になった年」にオモニ会の給食担当を任された李さんはfbに、「最後の当番日」について書いている。
「中級部の余った教室で、初級部全員で一緒に食事ができる給食室をつくりたいと提案」、それが今に至っているというのだ。
「給食室」の3文字に、そんないきさつがあることは、東京に戻って知った。
李さんは、その日の様子をつぎのように知らせてくれた。
メニューは「吉野家、すき家に負けないオンマ特製《ウリ家》の牛丼」だ。
「今もそうですが、当時はとにかく学校の中がさみしくならないように、笑顔であふれるようにと学生、教師、父母のトライアングルで頑張りました。その一コマが給食室です。後もう少ししたらニコニコ笑顔の学生たちが食器をカタカタ鳴らせながらゾロゾロやって来ます」。
窓ガラスに貼られた「給食室」の張り紙の写真を撮らなかったことが悔やまれた。
2階に降りて行きながら、いくつかの教室をのぞいた。
机の上にランドセルと制服が無造作に置かれた様は、放課後の部活中の「風景」だ。
「7人の一心で輝く 分団の一歩を踏み出そう!!」-6年生の教室の正面に貼られていたスローガンだ。
黒板には「2学期-22」、「卒業-78」との文字が。2学期の終業式と卒業式の日までをカウントダウンしているようだ。
隣の5年生の教室には、「北斗七星のように輝く私たちの一つの心で学校創立65周年に美しい虹…」とのスローガンが掲げられていた。最上級生として創立65周年を迎える意気込みが満ち溢れていた。
児童が下校した教室には鍵がかけられていて見ることはできなかった。
「暖房を入れるようになって、事故が起こらないよう施錠している」と、金校長は話していた。


