12月5日、この日の「登校」はいつものなんとなくではなく、4、5、6年の児童、少年団員に、東京チェーサムの66年の歩みを話すためだ。
12月8日は、東京チェーサムの創立記念日。何年か前も、話しに行ったことがある。今の6年生が4年生の時だというから、2年前だ。
少し早めに学校に着くと、運動場ではボールを蹴る児童が、制服のままだから体育の授業ではないようだ。
3年生の教室では、児童がプリントを手に、ウリマルと日本語を交互に読み返していた。話し言葉の「特訓」のようだ。

2年生の教室では、ビデオが上映されていた。空席が目立つ。「白雪姫?」、字幕なしのウリマルだ。
担任の高先生は、「アリス、不思議な国のアリス」だと教えてくれた。韓国のビデオだ。
4、5、6年生は授業中だから、運動場でボールを蹴っているのは1、2年生のようだ。

下級生の教室がある2階と上級生の教室が並んでいる3階の廊下に、習字教室の児童の作品が展示されていたが、下級生の作品の方が力づよく思えた。


3階の踊り場には、「チビッ子先生運動」のポスターが貼られていた。運動期間は12月2日から15日まで、「かならずしや9.3点を達成」が目標だ。ポスターの隣には、学年対抗の競争表、「中央統一試験」が近付いているのだ。

今回の「登校」で必ず確認しなければならない事案が一つあった。「新入生身体検査の日について書いたブログ(11・21)で、4年生の教室の前に貼られていた「詩」のタイトルを紹介したが、その中で「2」と書いたが、何かの誤りではないかとの指摘があったからだ。貼り出された詩に、確かに「2」と言うのがあった。小さい文字でつづられていた。身体検査の日は何かとあわただしく、見逃してしまったようだ。
2-2月2日は/わたしのたんじょう日/そして節分の日/わたしは/たんじょう日が待ちどおしい/でもこわいことがある/ようち園のとき/おにがくる/その日はすごくこわい/もうこんな目にあいたくない/でもわたしは2月2日が大好きだ/2がいっぱいでいい/わたしは2002年2月2日生まれです
まさしくタイトルは「鬼と誕生日」ではなく、見事というべき、結びの言葉からしても「2」がふさわしいと思った。
添えられた絵もユーモアに富んでいた。
左手に鬼と金棒、そして豆だ。右手にバースデーケーキとフォークにナイフ、プレゼント゛入ったリボンが結ばれた箱と本人であろう似顔絵だ。

下級生が一斉に下校していく。その一方で、手提げカバンを手にした児童が3階の理工室に吸い込まれていく。習字教室だ。「アンニョンハシムニカ」と児童。先生は名前を確認していた。「新しい先生?」児童たちは首をかしげながらも硯と筆を出して半紙に向かう。そして「準備できました」と、先生に声をかけて待つ。先生は自分の手を一人一人の児童の手に添えて文字を書く。「京」の一文字だ。書き終わると児童は「コマッスミダ」。この日の課題は、1、2年生は「京」で、3、4年生は「丸い」、5、6年生は「美味しい」だ。
私・「いつもは日本人の先生が教えていましたが?」
夏の熱い日、日本人の先生が「第3は冷房が完備されていているからいい」と、言っていたことを思い出した。
先生・「ピンチヒッターです」
いつもは埼玉のウリハッキョで教えているようだ。4年と2年の児童を東京チェーグーに送っている学父母だとも話していた。

6年生と4年生はクゴ(朝鮮語)、5年生は算数の授業だ。この何日間急激に冷え込んでいる。6年生の教室の前の廊下には色とりどりのジャンパーやコートがかけられていた。

授業が終わるといよいよ「お話会」だ。いつもと違って、落ち着かない。3階と1階を行ったり来たりした。
玄関の正面の柱に貼り出されている「가보겠습니다」「나가보겠습니다」を何度も読み返していた。この週に習得すべきウリマルだ。

授業が終わり、机が運び出された4年生の教室に5、6年生が椅子を持って集まり始めだしていた。70人を超えるのですし詰め状態だ。校長や教務主任の姿もある。4年担任の金先生がカメラを構えている、6年担任の黄先生はビデオ? いつもは私が校舎を回って撮っているのに、この日は逆の立場だ。緊張していることが分かる。
何日か考え抜いて作った2枚のプリントにに基づき、1945年12月8日の国語講習所の「板橋初等学院」から、2年後の1947年12月、「豊島初等学学院」と統合して東京第3朝聯初等学園、東京朝鮮第3朝聯小学校に、1949年の学校閉鎖令に伴い東京都立第3朝鮮人小学校へ、そして1955年4月に現在の東京朝鮮第3初級学校への歩みを校舎の変遷と共に話した。
児童たちは石炭ストーブを囲んでの授業風景や運動場での朝礼、掃除、運動会、修学旅行、坊主頭とおかっぱ姿の児童のモノクロの写真に興味を示してくれたようだ。プロジェクターではなく、写真をA3に拡大したコピーを次から次と見せたので、私自身、町の「紙芝居屋」の気分のようになっていた。

現在の鉄筋3階建ての校舎が竣工したのは、私が卒業した年の1962年12月だ。来年で50年になる。この間、2回にわたり大がかりな改修・改築工事が施されている。1962年竣工当時の写真をみながら、現在の校舎との違いを探す場面では、手が次々と挙がり少し手ごたえを感じた。そして、遠足や写生会、学校生活を写した最近の写真も見せながら話を進めたが、思っていたことの半分も話すことができなかったというのが正直な気持ちだ。
もちろん、写真を撮ることができなかったので、児童の解散風景にカメラを向けた。
「ソンセンニム コマッスムニダ」の児童の声がとてもありがたく耳に残った。

その後、4年の教室をのぞくと、7~8人の児童が「ナマコンブ」、居残り勉強をしていた。金先生の何分の何という声が廊下まで聞こえてきた。中央統一試験の準備のようだ。

教室の後ろでは、2人の児童が壁新聞を書いていた。鉛筆で下書きした「12月の予定」という文字が見えた。

玄関では、戸締りの点検を終えた週番が「反省会」を行っていた。5人の児童が金教務主任の話に耳を傾けていた。
「明日は資源ゴミ…8時15分には校庭に集めた枯れ葉も捨てる…」
朝の校庭の清掃に戸締り、下校指導、週番も何かと忙しそうだ。遅刻者がいたようだ。「時間厳守」を強調していた。児童の足元には携帯電話が入った篭が置かれていた。登校時に預け、下校時に返してもらうことになっているようだ

理工室では習字教室が続いていた。「美味しい」の四文字に、緊張が解けたのか急に空腹を覚え学校を後にした。

この日、チェーサムの所在地の分会の忘年会だった。私もしばらくこの近くに住んでいた。引っ越して10年が経つが、今でも分会の日帰り旅行や忘年会には引き続き参加させてもらっている。
忘年会が終わって、10時近くに分会長と何人かの参加者と学校の前を通ると、職員室の明かりはまだ消えていなかった。
気温が急速に下がっていた。いつも1年生の孫の送り迎えをしているK氏は、「先生はたいへんだなぁ」と、コートの襟を立てながらしみじみと語っていた。IK
