ブログ「守りたい命がそこにある」
より転載させていただきました。
2011年03月17日02:01
-略-
(今回の地震の記録として、自分に起きた経験を綴っています。)
確か我が家は、地震に強いツーバイフォー工法だったはずなので、自宅が一番安全と思っていました。
なので、我が家で一晩明かすことに何の不安もありませんでした。
それに、これから夜が冷え込みますが蓄熱暖房器の前でぬくぬく状態です。http://parts.blog.livedoor.jp/img/emoji/1/ic_face_relief.gif
すぐに寝てしまおうと思えうくらい、あたたかです。
明日からきっと忙しくなるので、少しでも温存しなければと考えていました(いえ、安心したからかも)。
周りは少しずつ暗くなってきたかと思うと、いつの間にかすぐに周りの物が見えない暗さ(闇)がやってきました。
普段は、ご近所の明かりや、街灯などの光りがあるのに、一帯が停電しているのでまさに暗闇なのです。
すると…
確か我が家は、地震に強いツーバイフォー工法だったはずなので、自宅が一番安全と思っていました。
なので、我が家で一晩明かすことに何の不安もありませんでした。
それに、これから夜が冷え込みますが蓄熱暖房器の前でぬくぬく状態です。http://parts.blog.livedoor.jp/img/emoji/1/ic_face_relief.gif
すぐに寝てしまおうと思えうくらい、あたたかです。
明日からきっと忙しくなるので、少しでも温存しなければと考えていました(いえ、安心したからかも)。
周りは少しずつ暗くなってきたかと思うと、いつの間にかすぐに周りの物が見えない暗さ(闇)がやってきました。
普段は、ご近所の明かりや、街灯などの光りがあるのに、一帯が停電しているのでまさに暗闇なのです。
すると…
玄関をドンドンドンと、もの凄い勢いで叩く音が聞こえます。
でも、辺りは真っ暗で、玄関は床に花瓶が落ちてガラスの破片が広がっているのでとても行けません。
一番近くの窓を開けて外を確認するけれど、玄関に人がいるのかも分からないほど暗くて、ほとんど何も見えません。
まだ夕方なのに、周りに明かりが一切ないと、暗くて何も見えないのです。
生まれて初めての経験でした。
ドアを叩く人は、旦那さんだと思っていました(それしか思い当たらない)。
でも、こんなに早く帰ってくるわけはない、どうしたのだろう…
そう思っていたら、それは、私の母でした。
母が私の名前を読んでいました(母も暗くて私が見えていない)。
暗闇の中、私たちに見えるのは、空の星。
星だけが鮮やかに光りを放っていました。
母には、職場から帰ってくるまでに何度も携帯電話を掛けていました。
でも、電話はずっと繋がらなくて、メールを何度も送りました。
帰宅してからは、旦那さんの実家から安否の確認で連絡が入り、現状を伝えていたために、携帯電話の電池は底を尽いてしまいました。
電源を一旦オフにして、再起動すると、まだメールなら使えます。
それでも、母からの返事は無く、心配で父に携帯電話を掛けると繋がりましたが、父も母とは連絡がつかないと言っていました。
また電源が切れました。
父も、うちの旦那さんと同じ原子力の研究所に勤務しています(旦那さんとは事業所が違う)。
定年後もまだそこで働いているのでした。
現在両親は、主にマンションに住んでいます。
マンションは13階建てなのですが、その最上階に住んでいるので、そこで地震を経験した母は、相当恐ろしい目にあっていたと想像できます。
地震後、母は近くの公園へ管理人さんの誘導で避難していましたが、日が暮れる前に避難場所に指定されている中学校へ同じマンションに住まわれる方々と移動したそうです。
母は、私と父に電話を掛けていたそうですが、全く繋がらなかったと言っていました。
中学校にはたくさんの方が避難されていましたが、そこは避難場所ではあっても避難施設ではないので何も無く、寒いし、暗いし、そこにいること自体が母には不安で、私の家まで歩いてきたというのです(車で15分くらいの距離)。
でも、辺りは既に真っ暗で車もあまり通らなくなっていて、道に迷いながら4、5キロは歩いたと思われます。
母がここへ来るまでの間に、唯一明るい「灯り」を見たのが朝鮮学校(正式名はもう少し長いかもしれません)でした。
私の家に近い避難場所は、小学校が2校、中学校が2校、高校が1校、公民館的な施設が1つほどあって、我が家はそれらのほぼ中央に位置しています。
因みに、お世話になったことはありませんが、個人病院がとても多い場所でもあります。
それらの避難場所の他に、聾学校や、朝鮮学校があるのですが、聾学校は避難場所に指定されているようなのですが、朝鮮学校は避難場所に指定されていませんでした。
私は、朝鮮学校が避難場所に指定されていなかったことを、その後で知ることになります。
朝鮮学校のその灯りは、焚き火をしていた灯りで、学校の関係者(先生方)と児童、生徒の皆さん、父兄の方々が避難されていました。
母は、そこへ行こうと言うのです。
自分の家が一番安全と思っていた私でしたが、やや興奮気味の母にそうは言えずに、母が納得のいくようにその場へ行ってみることにしました。
朝鮮学校には、焚き火を囲んでたくさんの人と、その父兄の車が止めてありました。
数台の車が、一晩中ライトをつけて私たちの不安を解消しようと照らし続けてくれていました。
私は、素直にその中に入っていくことができませんでした。
そんなことは図々しいと思ったからです。
でも母は違っていました。
困っている時はお互いさま、みんな同じよと言いながら、聞いてくると言って、和の中へ入って行きました。
朝鮮学校の人たちは、快く私たちに暖と居場所を与えてくれて、握りたてのおにぎりをくださいました。
そのおにぎりが美味しいの何のって、ただ塩を掛けた普通のおにぎりなのですが、その優しさと温かさにただただ感謝でした。
私たちがおにぎりを食べている間にテントを作っていて、その中にストーブが1台設置されました。
ここは校庭です、風が強くて寒いのなんのって。
青いビニールシート1枚で三方を囲ってあるだけのテントでしたが、その中は風が防げるので寒さがしのげました。
そこへイスをいくつか運んでくれて、私たちに勧めてくれました。
それから炊き出しのスープをいただいて、夜遅くなると子どもたちは教室へ入りました。
宿舎もあるので、毛布などもあったようです。
ただ、建物の安全な確認されていないので、1階の1教室だけに子どもたちを集めて寝かせることにしたようです。
焚き火の場所から一番近い教室なのですが、きっと中も寒かったと思います、怖かったと思います、でも、誰一人として不満も言わずに先生方の言うことを聞いて教室に入って行きました。
大人たちも、子どもたちも、みんな頑張っているんだと思いました。
校舎の時計は、地震の起きた2時49分(3度あった地震の中で茨城沖の地震の時刻と思われる)で止まっていたのが、印象的でした。
先生方、生徒の皆さんはとても親切で、常に私たちを気にしてくれて、優先してくださいました。
みんな同じ被災者なのに、こんなに温かく迎え入れてくれて、本当に申し訳ないくらいでした。
それから、先生と生徒のお母さんと、地震の起きた時にしていたことなど色々な話をすることが出来ました。
見渡すと辺りの住宅は真っ暗です、その一つ一つの家の中で、皆さんはどのように過ごされたのでしょうね。
空を見上げると、無数の星が目に飛び込んできて、私は寒さも忘れ、暫しその輝きに魅了されていました。
本当に、キレイな星空でした。
でも、辺りは真っ暗で、玄関は床に花瓶が落ちてガラスの破片が広がっているのでとても行けません。
一番近くの窓を開けて外を確認するけれど、玄関に人がいるのかも分からないほど暗くて、ほとんど何も見えません。
まだ夕方なのに、周りに明かりが一切ないと、暗くて何も見えないのです。
生まれて初めての経験でした。
ドアを叩く人は、旦那さんだと思っていました(それしか思い当たらない)。
でも、こんなに早く帰ってくるわけはない、どうしたのだろう…
そう思っていたら、それは、私の母でした。
母が私の名前を読んでいました(母も暗くて私が見えていない)。
暗闇の中、私たちに見えるのは、空の星。
星だけが鮮やかに光りを放っていました。
母には、職場から帰ってくるまでに何度も携帯電話を掛けていました。
でも、電話はずっと繋がらなくて、メールを何度も送りました。
帰宅してからは、旦那さんの実家から安否の確認で連絡が入り、現状を伝えていたために、携帯電話の電池は底を尽いてしまいました。
電源を一旦オフにして、再起動すると、まだメールなら使えます。
それでも、母からの返事は無く、心配で父に携帯電話を掛けると繋がりましたが、父も母とは連絡がつかないと言っていました。
また電源が切れました。
父も、うちの旦那さんと同じ原子力の研究所に勤務しています(旦那さんとは事業所が違う)。
定年後もまだそこで働いているのでした。
現在両親は、主にマンションに住んでいます。
マンションは13階建てなのですが、その最上階に住んでいるので、そこで地震を経験した母は、相当恐ろしい目にあっていたと想像できます。
地震後、母は近くの公園へ管理人さんの誘導で避難していましたが、日が暮れる前に避難場所に指定されている中学校へ同じマンションに住まわれる方々と移動したそうです。
母は、私と父に電話を掛けていたそうですが、全く繋がらなかったと言っていました。
中学校にはたくさんの方が避難されていましたが、そこは避難場所ではあっても避難施設ではないので何も無く、寒いし、暗いし、そこにいること自体が母には不安で、私の家まで歩いてきたというのです(車で15分くらいの距離)。
でも、辺りは既に真っ暗で車もあまり通らなくなっていて、道に迷いながら4、5キロは歩いたと思われます。
母がここへ来るまでの間に、唯一明るい「灯り」を見たのが朝鮮学校(正式名はもう少し長いかもしれません)でした。
私の家に近い避難場所は、小学校が2校、中学校が2校、高校が1校、公民館的な施設が1つほどあって、我が家はそれらのほぼ中央に位置しています。
因みに、お世話になったことはありませんが、個人病院がとても多い場所でもあります。
それらの避難場所の他に、聾学校や、朝鮮学校があるのですが、聾学校は避難場所に指定されているようなのですが、朝鮮学校は避難場所に指定されていませんでした。
私は、朝鮮学校が避難場所に指定されていなかったことを、その後で知ることになります。
朝鮮学校のその灯りは、焚き火をしていた灯りで、学校の関係者(先生方)と児童、生徒の皆さん、父兄の方々が避難されていました。
母は、そこへ行こうと言うのです。
自分の家が一番安全と思っていた私でしたが、やや興奮気味の母にそうは言えずに、母が納得のいくようにその場へ行ってみることにしました。
朝鮮学校には、焚き火を囲んでたくさんの人と、その父兄の車が止めてありました。
数台の車が、一晩中ライトをつけて私たちの不安を解消しようと照らし続けてくれていました。
私は、素直にその中に入っていくことができませんでした。
そんなことは図々しいと思ったからです。
でも母は違っていました。
困っている時はお互いさま、みんな同じよと言いながら、聞いてくると言って、和の中へ入って行きました。
朝鮮学校の人たちは、快く私たちに暖と居場所を与えてくれて、握りたてのおにぎりをくださいました。
そのおにぎりが美味しいの何のって、ただ塩を掛けた普通のおにぎりなのですが、その優しさと温かさにただただ感謝でした。
私たちがおにぎりを食べている間にテントを作っていて、その中にストーブが1台設置されました。
ここは校庭です、風が強くて寒いのなんのって。
青いビニールシート1枚で三方を囲ってあるだけのテントでしたが、その中は風が防げるので寒さがしのげました。
そこへイスをいくつか運んでくれて、私たちに勧めてくれました。
それから炊き出しのスープをいただいて、夜遅くなると子どもたちは教室へ入りました。
宿舎もあるので、毛布などもあったようです。
ただ、建物の安全な確認されていないので、1階の1教室だけに子どもたちを集めて寝かせることにしたようです。
焚き火の場所から一番近い教室なのですが、きっと中も寒かったと思います、怖かったと思います、でも、誰一人として不満も言わずに先生方の言うことを聞いて教室に入って行きました。
大人たちも、子どもたちも、みんな頑張っているんだと思いました。
校舎の時計は、地震の起きた2時49分(3度あった地震の中で茨城沖の地震の時刻と思われる)で止まっていたのが、印象的でした。
先生方、生徒の皆さんはとても親切で、常に私たちを気にしてくれて、優先してくださいました。
みんな同じ被災者なのに、こんなに温かく迎え入れてくれて、本当に申し訳ないくらいでした。
それから、先生と生徒のお母さんと、地震の起きた時にしていたことなど色々な話をすることが出来ました。
見渡すと辺りの住宅は真っ暗です、その一つ一つの家の中で、皆さんはどのように過ごされたのでしょうね。
空を見上げると、無数の星が目に飛び込んできて、私は寒さも忘れ、暫しその輝きに魅了されていました。
本当に、キレイな星空でした。
以下次回