九月は「敬老の集い」と写生会
ウリハッキョを記録する会
*「統一評論」11月号の連載に一部加筆。

■五八期、東京朝高在学生の個展へ
九月第二週の土、日は、私にとっては「チェーサムデー」だった。
土曜日の午前と午後にかけては、「敬老の集い」、少し休んで三時からはオモニサッカーの練習の見学、六時からは教育会役員たちから話を聞き、翌日の日曜日は東京朝高のグランドでのオモニサッカー大会の応援で一日つぶした。それに、美術展が重なったのである。
オモニサッカーチームの練習は、サッカー好きの児童を交え、ボールを蹴る足に負けないくらい、口が動く、そんな和気あいあいとした雰囲気だった。
「ナイス(プレー)」との声がかかっても、「全然狙ったわけじゃないけどね」との答えが返り、ボールを外し「あと足が一〇センチ長かったら」との言い訳には、「あと体重一〇キロ減でしょ」と言い返される。
その合い間に、布団をかたづけに家に行ってきたり、児童と夕飯のおかずの相談をしたり…。
教育会の会議に参加するために安監督が引き上げると、一人が「死んじゃう」と、その場に座りこむ。「もう駄目」と、彼女を囲むように次々とへたり込む。監督は、残り時間は児童と練習試合をするように指示していたったにもかかわらずである。
「最近、サッカーの試合見ている?」
「そんな時間ないけど」
「ダメじゃない、イメージトレーニングよ、日本代表の本田圭佑みたいに、無回転シュートは…」
「私はどちらからというと、遠藤ね」
日本代表の遠藤保仁のことのようである。残念ながらチェーサム出身のアン・ヨンハクや、チョン・デセの名前は出なかった。
「ボールを追いすぎてはだめね」、「日に焼けないようにサンバイザーが必要かも」、「みんなでサングラスをしたら…」、「ヘディングできないじゃない」、「そこまでする?」、「最初からゴール前にいて蹴り込むから」、「それオフサイドじゃない」、「オフサイドって何…」
「못말린다、못말려」(モッマンリンダ、モンマルリョ)、どうにもとまらない、とめられないとは、彼女らのための言葉のようである。
練習試合に代わる、「作戦会議」は、運動場の真ん中で練習時間終了まで続いていた。
次の予定まで、一時間余りあったので、池袋に向う。「朝鮮新報」に載った「東京中高高級部美術部学生が個展」の案内記事が、気にかかっていたからだ。

芳名録を見ると、今年四月に東京チェーイルに赴任して行った、元教務主任の康先生の名がある。彼は美術にも興味があるのかと、会場に入る。招待状が届き、うれしくてお菓子を持参してきたという、康先生がいた。
「五、六年生の時に担任をしたので…」
個展を主催した姜光俊君は、二〇〇五年卒の五八期生だという。彼が、チェーサムの卒業生だということをこの時に初めて知った。「朝鮮新報」には書かれていなかった。何かに引き寄せられて来たのかもしれない。
チェーサムに入学するよう家を訪ねたことや、低学年の時に似顔絵を描いてくれたこと、「カールおじさん」が好きだったことなどを楽しそうに話してくれた。
姜君は、似顔絵を描いたことは、忘れていたが、康先生や同級生が来てくれたことをとても喜んでいた。
翌日のオモニサッカーを応援に、青商会主催のサッカー大会に行くと、康先生は二つのチームのキーパーをしていた。グランドで顔を合わすたびに、彼との思い出を語ってくれた。
洋楽器部に所属し、リコーダーを担当したが、合奏についていけず、個別に「ドレミファ・ソジョ(小組)」に入れて特訓し、ようやく学芸会に出演させたこと、コ・ヨンジュン、ムン・エファ、チョン・ソナなんかと仲良しであったことなどを。
そんなこともあって、この日もサッカーの表彰式の後に、姜君の顔を見たくなり、再び個展会場に足を運ぶ。
見学者を見送りに出てきた彼の写真を撮る。進学して美術の道を進むのが夢だという彼は、今度作品を発表するときには、東京朝高と共に、必ず東京チェーサムを卒業したことを記すことを約束してくれた。
数日後、康先生から届いたメールには、次のようなことが書かれていた。
「小学校当時は、絵の才能があると思ってもいなかった。中学に上がり、美術部に入り、確か一年生の時の美術展で、優秀賞を受賞した。風景画で、細かく窓ガラスなどが鮮明に描かれていたので、びっくりした。もっと、早くこの世界を発見してあげられなかったことが悔やまれてならない」。
× ×
九月一六日、チェーサムから次のようなメールが届いた。
「東武東上線の元駅長だった大森さんから、第三学校宛に大量のプッコチュ(青唐辛子)が送られてきました。(大森さんのことは、『続・私たちの東京朝鮮第三初級学校物語』にもが書かれていましたね)
三年前、李悠那(当時初二)が年賀状を送ったのがきっかけで、その後も交流(東武鉄道のキャラクター入り文房具を毎年学校に全校生分を持ってきてくださる等)が続いていましたが、大森さんは去年定年退職をされ、今は農業をされているそうです。
それで、収穫したプッコチュを第三学生たちにと、段ボール箱いっぱい送ってくださったのです!!」

その二日後には、「避難訓練の後、大森さんからいただいたプッコチュについて、校長先生が児童たちに話しました。
今日、プッコチュ一〇個が、各家庭に配られました。何しろ大量なので、辛いにおいが教室に漂っていました。」
六年の女子児童が袋詰めする写真が添付されていた。
大森さんは、チェーサムの児童の通学駅の一つ、朝霞台駅の前駅長である。
二年生が送った一枚の「年賀状」が、さまざまな交流を経て、三年後には「プッコチュ」という形になって、戻ってきた。一〇月下旬のバザーの時には、味噌と醤油で漬けこんだこのプッコチュがふるまわれるという。
今年は日本による朝鮮の強制併合から一〇〇年目。一〇〇年たった今日も朝鮮高校が無償化の対象から排除されるなど、差別はなくなっていない。そんな中でも、このプッコチュは香ばしい薫りともに、ウリハッキョに寄せる日本人の温かい気持ちを各家庭に届けたに違いない。 (キム・イルウ ウリハッキョを記録する会・一粒出版)
連載中の月刊「統一評論」 660円
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在日のこれまでと今を本に「一粒(한알)出版」
ウリハッキョを記録する会
TEL.FAX 03-6279-3356
■シリーズ・朝鮮学校の歩み
Ⅰ「私たちの東京朝鮮第三初級学校物語」(一九四五~六七年・証言編)
Ⅱ「朝鮮学校は民族、統一、共同体の価値を持つ宝庫」(ソウル発インターネット新聞の特集)
Ⅲ「復刻版・東京朝鮮中高草創期十年史」
Ⅳ~Ⅵ「ぼくらの旗-君はあの頃(都立)の東京朝高生を知っているか?」(三部作)
Ⅶ「私の中の一九四八年朝鮮人学校教育事件-アメリカ占領軍に抗して」
Ⅷ「続・私たちの東京朝鮮第三初級学校物語」(一九四五~二〇〇九年・体験記録編)