
朝鮮大学校文学部連合同窓会が制作、タイトルは日本語訳で「星の流れるせせらぎの辺で」。案内パンフには「両親たちが歩んできた道」「子どもたちが歩む道」とある。
脚本から監督、スタッフ、出演者は、数人を除いて卒業生と在校生。「あんなやついた、いた」とか、「いる」とか、「いそう」とかという連中が、それもいかにも、ありそうな、そんな場面で、次から次へと出てくるのである。
例えば、
主人公のチョンソン-真面目に、なんとなく大学まで来ちゃった男。
その相棒のミンス-どこのクラスにも、一人や二人いる、やんちゃで憎めない馬鹿。
女の先輩-融通のきかない反面、なぜか面倒見のいい「ヌナ」的存在。
コリエ-いちずで…
担任教師-あんたのいうこと、ごもっとも。いつも自分の言葉に酔っちゃっている熱血。
それに「名場面」の連続である。
歴史博物館のドアをあけてただ一言「焼きそばの匂い」-怪演です。
カウンターの中にいるのだが、なぜかチョーデー卒業生の雰囲気が漂う居酒屋の主人-存在感。
鈴木医師-キャバ嬢との絡み、演技なし、自然体-凄い。
日本人家主-少し肘が開いた後姿は、どうみても朝鮮人以外の何者でもない-地は隠せない
ソンファのハルモニ-日本人役だからといつて、いまどき着物とは?
「残念ながらウリハッキョにかよえなかった」と、朝鮮訛り丸出しで語る焼き肉屋のおばさん-参りました。
演技らしいことを試みていたのは「加藤医師」だけでは? 他の面々は完全に「地」、存在そのものが絵になるのだから、おそれいった。
それにしても、「国籍」だの、「アイデンティティー」だの、「民族」だのと、散々大風呂敷を広げておきながら、それをたたむでもなく、つつみなおすでもなく、ひろげっぱなし、散らかしっぱなしでジ・エンドとは、お見事である。「小川のせせらぎ」の絵の前に立つカン・ソンファの明るい表情が、すべてを語っているようではあったが…。
大きな会場を埋めることはできなかったが、その場にいた者の心は、二倍にも三倍にもふくれあがり、会場を十分満たしたにちがいない。
日本語字幕入りで上映-それはいただけない。画面からほとばしる独特の情緒、機微は、とても翻訳できる代物ではない。かえって、日本語の部分をウリマルに翻訳し、韓国の映画祭に出せば絶賛されるかも。ik