
「1956年に47人の帰国希望同胞が日赤本社前で4月から2ヶ月間座り込みを行った。その後、同胞たちは2組に分かれて自費で帰国した。◆1陣の20人は、12月 6日に門司港を出航して中国の上海を経て、12月14日に平壌に到着した」
上記、記述の日赤本社前での座り込みの写真と、門司港出港からの帰国までの様子を記した書物を、亡父の書庫から発見した。
鴻盟社が昭和33年(1958年)に刊行した「最後の帰国船」(280頁)。
日本赤十字社副社長の葛西嘉資氏は、著者の高木武三郎氏について、序文で次のように紹介している。
「彼は敗戦の直後、当時厚生省の社会局長だったわたしの乞いに応じて、南紀の引揚港田辺の引揚援護局の総指揮に当り、その後、昭和28年かせはわが日本赤十字社の社会部長としてこの事に当った」
「この事」とは、日本人引揚事業、本のタイトルの「最後の帰国船」とは、中国からの引揚船のことである。
巻頭、4頁のグラビア集(モノクロ写真)の3頁目には「朝鮮人の座り込み」とのタイトルの下に、「強い陳情」、「日赤内に座り込み」、「座り込み天幕宿舎」、「75日目に座り込み撤去」との説明を付した4点の写真が掲載されている。
一方、本文も同様に「朝鮮人の座り込み」とのタイトルが付されている。
「事件のはじまり」、「一まず座り込み撤去」、「二度目の座り込み-強制撤去」、「門前で持久戦」、「自費出国の方針と啓明寮」、「大牟田籠城」、「北鮮への道は険しい」との7つの小見出しからも察することができるように、日赤本社前での座り込みから門司港出港までの経緯が、あくまでも日本赤十字社の立場からではあるが、214頁から30頁にわたって、ことこまかに綴られている。。
以下、帰国について記した部分を紹介する。
「ねばりにねばった彼等のうち朴元杓を含む22名は、12月6日門司港発のノルウェー汽船『ハイリー号』に乗り上海経由、12月14日に平壌についた。このことは殆んど秘密のうちに運ばれたので誰も知らなかった。残された25名と追加した5名計29名は、32年(1957年)の正月も大牟田で迎え、2月、3月も居住していたことは判明しているが、3月の末になって全く姿を消してしまった。帰鮮を思い止って国内にとけ込んだのか、もぐって北鮮らかえってしまったのか、ある人は4月上旬彼等の一行を清津港で見たといっているが真偽のほどは判らぬ。この間の事情をよく知っている人がうるかも知れぬが、誰も口を緘して語らない」
「それほど困難と危険をのりこえても帰国を企てるのは何故か、単的にいうならば日本では生活ができないから帰るより手がないということである。現在の日本が暮らしにくいというばかりでなく、将来に向かっても希望が持てない。北鮮では帰国を歓迎してくれるし、新しい国造りとしての魅力もあるということになれば北鮮へあこがれるのは当然である。」(241頁)
追・「10年史」にも記されているが、祖国解放10周年記念代表団の団長として日本を離れる林光澈校長一行の写真も見つけ出すことができました。