●●持久戦という地殻変動か。●● | よろぼい日記

よろぼい日記

杖ついてやっとこさ歩いてバタンキューの毎日。食べれない。喋れない。わからない。死にそう。どん詰まりのあがき…………か。それとも死に欲かな?

 

再稼働だと?

値上げだと?

重税にあえげだと?

 

しめあげればしめあげるほど、ひーひーいわせればいわせるほど、殺せば殺すほど、うるさ型の猛者どもも従順にひれ伏すと、キャタピラーをガタガタ、ゴリゴリがならせて、矢継ぎ早に、息つくいとまもなく、頭上から、足元から、斜めから、横から、後ろから襲いかかってくる。

これでもか、これでもかと。

 

そのうえ、ウクライナに続けだと?

カラスの鳴かぬ日はあっても、戦争、戦争とわめかぬ日はない。波のまにまに浮き沈みする遭難者を救出するレスキュー隊を実況中継しているようなかまびすしさだ。カラスの方がかわいいし、ずっと静かだ。

 

それでも、どっこい。

いくらガナろうが糠に釘、効き目なんてあるか!

 

煙草をやめ、酒をやめ、できるだけ飲まず食わずで、じっとしていればよいのだ。

どうせ、どこへ行ってもげんなりする。

海も山も川も繁華街もはずれも放射能は舞い、自然はことごとく破壊され、人々の表情はうつろで、見てくれとちがって剣呑だ。

 

そうさ、僕たちは手も足ももがれ、奴隷より始末の悪いことに頭のなかまで抜き取られ、権力にたてつくバカなやつらを冷笑しながら高みの見物を決め込み、明るく、ほがらかに、ヒーヒーあえいでいるわけだ。

 

もう来るところまで来てしまったのだ、何から何までおしまいにするときが来たのだ。

 

政府のプロパガンダがどれほど気違いじみていようとも、やはり、胸のあたりで「原発を動かすくらいならローソクとカンテラで暮らす方がましだ」と感じているのだ。

 

ヤラセにも出来レースにも政治決着にも、賃金カットにもお払い箱の恐怖にもさっぱり驚かなくなったばかりか、どれほどひどい、木で鼻をくくるような仕打ちが襲いかかってきても、以前のように

 

――とは、つまり、釜に行き、東電ヘソ出しデモ、自由と生存デモ、三里塚にも初参加し、祝島、水俣、北海道と遠出し、2010年10・24の水谷橋公園から始まったネットデモから全国を飛びまわり、一呼吸おいて高江へ飛ぶ準備をしているとき、さわさわと地面が、木々が、家々が揺れたあの頃――

 

地団駄踏むことはなくなってしまったのだ。

 

それほどまでに僕たちはこの10数年のあいだに、変わってしまったのだ。

デモに次ぐデモの、疾風怒濤の日々を経験し、やがて、飯舘村、いわき、南相馬から郡山へいき、ついには、フクイチにもぐり込んでデブリ取り出し作業に命を捧げようとまでに怒り狂って、この10年戦い続けた。

 

――つまりは、持久戦に入った。

 

そこではひとりひとりの箸の上げ下ろしが重要だ。

持久戦は長びく。

しかも、そいつが続いているうちは、途中で殺されても、どうせ、ほとんど殺されかかった命だ。ぼろ雑巾みたいに捨てても、惜しくはない。

 

事ほどさように、嘘も、暴力も、人殺しも、死も、放射能ですら、やがておっ始まる戦争も、ちっとも怖くない。