吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

2015年4月現在の私

2014年12月末日で会社を退職した私は、明けて1月から自分探しを始めた。

溜まっていた片付けものをしている際に、返さなくてはいけない本が出てきたことで、真っ先に4年間途切れていたボーイスカウト尼崎第25団との縁が復活した。

長らく借りっぱなしになっていた事を詫びるために電話すると、一足先に会社を退職して自立・起業を始めた光造隊長が、自分の経験を元に2種類の名刺を名刺入れとともに作ってくれた。

2種類というのは、ボーイスカウト尼崎第25団の副育成会長としての名刺と、指導者有志で立ち上げた特定非営利活動法人 ふくろうの会 の理事としての名刺であった。

どこに行くにも渡すべき名刺のない私にとって、それは涙の出るほどうれしいプレゼントであった。
ボーイスカウトは、「ひとたびちかいを立てれば死ぬまでスカウトだ」という掟がある。

仕事の都合で中断を余儀なされてきたボーイスカウトの活動だが、私はにわかスカウト指導者の端くれであり、死ぬまでスカウトだったのだ。活動を再開することでささやかな社会貢献にもなる。

おまけに、リーダーの仲間でコーヒー豆の焙煎販売をしている土井さんから、「うちの店を使って収入を得ることをしないか?その収益の一部をスカウト卒業生の就労の場づくりと、グループホームづくりにも充てることを考えよう」という申し出があった。

こうして、焙煎工房マルイ が支援する、特定非営利活動法人 ふくろう珈琲事業部が誕生した。

その後

4年前にブログを書かなくなったのには訳があります。

そして、今日までの4年間は知人の会社を手伝っておりました。
忙しすぎて書けなくなったのも理由の一つです。

そのほか、このブログを書こうと決意した時点での立場と変わったことも理由です。

でも、このブログを書いていて良かったと思うのは、このブログを読んで泣きながら電話をくれた人が居たことでした。

私が足で調べた事実をこのブログに記載したことで、その人を救うことになったのです。

本当に良かった。と思いました。

2015年1月に、知人の会社を退職し、自由業として独立しました。

これからの私の思いや行動はこちら(http://kigyo-suruzo.com)に記載していきますが、このブログはこれまでの6年弱の間、私が見聞きした、尼崎についての想いや、尼崎の誇るべき事が書いてあります。

時代とともに内容と現実が異なっていることもあるでしょうけれども、大げさに言えば私の生きてきた一つの期間の足跡だと思っていますので、必要があればいつでも見ていただけるようにしておこうと思います。

むこっ子ロードまちかど工務店

12月4日の51歳の誕生日は、久々のまちかど工務店で始まりました。

と言っても、午前中しか作業ができないため、懸案となっていた小作業のみとなりました。


まずは第一期に行った拠点内花壇の丸太取り替えです。

手前の少し赤茶の丸太が入れ替えたものです。

3年前の丸太は腐食が激しかったのですが、これを取り替える際、地元のどなたかが置かれていった床の間の飾り物であったと思われる富士山のような形をした石を埋め込みました。(手前右丸太の間)
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

取り替えた腐食が進んだ丸太
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

忙しくしていて、参加できない間に取り替えられた丸太橋。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

今回は防腐処理済みの丸太を使用しました。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

ビオトープとポンプの取り替え工事、武庫小学校側のフェンス後退による遊歩道整備(業者発注)など、年度末までの作業は目白押しです。

猪名寺 佐璞丘クリーン作戦

11月27日(土)、猪名寺廃寺跡に残る佐璞丘の自然林でクリーン作戦が行われました。


『佐璞丘は、東西170m、南北200m、標高10m(尼崎市最高峰!)の台地で、西摂平野のほぼ中央に位置し、東は藻川が南流し、南は沖積平野に連なり、西は伊丹街道に接し、北は伊丹台地に続いている。

伊丹台地は緑ヶ丘丘陵とも呼ばれる洪積層台地で、廃寺跡はその南端部に位置している。』

(『わがまち再発見・猪名寺』 資料より)


都市部に残る貴重なエノキ・ムクノキ林であるが、永年放置されてきたことから照葉樹やシュロが生い茂り、カラスの格好のねぐらで、昼なお暗い林であるため、ゴミが捨てられるなど、猪名寺の地域課題の1つでありました。


9月11日に発足した、『万葉の森 佐璞丘再生プロジェクト』の一環として、外来種の剪定、下草刈り、ゴミ拾いを行って明るい、親しみの持てる森にしようという取り組みです。


地域住民や地元企業関係者などが集まり、作業開始です。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

外来種であるシュロを伐採します。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

足下にはゴミが散乱しています。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

伐採チームとゴミ拾いチームに分かれて作業が始まり、伐られたシュロや集められたゴミが続々と運び出されます。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

パッカー車が一台待機して、集められたシュロを積み込んでいましたが、あっという間に満載になり、その後にも大きな山が築かれます。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

あっという間に時間が経過し、広大な林の一部ですが、見違えるようになりました。

プロジェクトはこの後、今年度末までを期間として佐璞丘の価値を学ぶ講演会やイベントの開催が予定されています。


園田北社会福祉連絡協議会の尼崎会長、猪名寺自治会の内田会長の挨拶でクリーン作戦は終結しました。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

51歳の誕生日

12月4日、私は51歳になりました。

朝からいつものように大井戸公園の清掃、ラジオ体操の後、PCを立ち上げるとお祝いメールが届いており、改めて自分の誕生日に気がつく始末。

知命の50代、まだまだ精進に務めます。


あっという間の一月間

嵐のような3週間と、その後片付けに追われている間に12月に入ってしまいました。


明日は私の51回目の誕生日。


物理的な事務所の撤収、かかった費用の精算などに忙殺された2週間が過ぎようとしています。


お世話になった方々へのご挨拶もまだまだ完璧ではない状況で、市議会の控え室も引き払わなければならず、

まだまだ物理的な後片付けも残っています。


今回の旗上げについて総括するゆとりもないまま、ようやくパソコンが使える状態にまで復旧いたしました。

これまでに撮り溜めた写真とともに、たまった思いなど、これから少しずつ書いていこうと思います。



一月以上走り続けてきたことと、ようやく緊張の糸がほぐれてきたことで、疲れが予想以上に溜まっているのか、自分自身では元気なつもりでも、『疲れた顔をしている』と言われます。


年が明けるまではゆっくりと考えるいとまもないでしょうが、慌ただしい師走の日々に流されることなく、後片付けと来年に向けた足固めの一月です。

記者発表

去る29日午後3時、尼崎市役所記者クラブに於いて記者会見を行いました。


『尼崎市の危急存亡の時、市民の皆様から尼崎市のために働け、と立場を与えていただいた政治家の一人として、市民生活の安定のため、尼崎の、日本の再生のため、私利私欲を捨て立ち上がるべきと考えました。
この度、議員を辞職し、命をかけて、尼崎市の未来、子ども達の将来のため働きます。』(記者発表文より抜粋)


記者発表当日のお昼前にようやく完成した一文を胸に、覚えるいとまもなく臨んだ会見でした。

同席頂いたのは、現在の市政に不安や不満、閉塞感を覚える良識ある4人の市民の方々。


政党や名のある人の力を恃むのではなく、市井の声こそが大切だという思いでした。


ずらりと並んだ各社記者とNHKのテレビカメラを前に、A4 1枚の記者発表文を読み上げ、その後質疑応答に入ります。

1時間半にも及んだ記者会見は、各社記者の関心の高さ(私の説明がいつものようにくどくて長いから?)を物語っているのでしょう。


兵庫県の地方紙である神戸新聞は、翌日の兵庫版、阪神版に2つの記事を掲載されておりました。

1時間半にも及ぶ会見をこれだけの文章に、しかもうまく切り分けて簡潔に表現されています。

さすが、と感動いたしました。
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

いよいよ、3週間の闘いの幕が切って落とされます。

記者会見

明29日金曜日午後3時より、尼崎市役所中館2階広報課隣の記者クラブ控え室に於いて、記者会見を行います。


これまで、様々なイベントを行ってきて記者会見は何度も行ってきましたものの、今回は緊張の度合いが違います。


同じ志を持つ市民・友人を恃み、自らを信じ淡々と臨みたいと思います。


乾坤一擲、赤心の思いで事にあたれば何事か成らざらん。

勝負は鞘の内にあり

居合道の教えに『勝負は鞘の内にあり』という言葉があります。


勝つか負けるかは刀を抜く前にあり、その時こそが大事な時だ、という意味だそうです。


剣豪 宮本武蔵は生涯幾度もの果たし合いを行い、敗れたことがないのが有名ですが、刀剣の技もさることながら、登場の方法、避退の方法、心理戦、使用する刀を状況に合わせて変える、など、戦う前に徹底的に研究したことで有名です。


武蔵が闘いに臨む際の心構えがまさに『勝負は鞘の内にあり』なのでしょう。


まだ幼い名目上の相手をまず最初に殺したり、時間に遅れて相手の神経を乱れさせたりと卑怯な闘い方、と言う誹りもあります。


そうしたことが後半生、仏像を彫ることや。人との闘いをせず、剣をつかう事の精神性を凝縮した『五輪の書』を書いて剣聖と呼ばれる所以でしょう。

人権交流まつり

三連休に先立つ10月8日からの3日間、南武庫之荘総合センターでは人権交流まつりが行われました。

9日の雨を予想していたかのように(ではないのでしょうが)、ステージと模擬店を屋内で行ったことで大過なく開催されました。(テントやステージ、PAなどの費用はかからなかったでしょう)
吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記



吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記


吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

吉岡 健一郎 の 「尼崎(まち)を動かす」 三分間 日記

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>