チルド麺

スーパーの麺を最近買います。

スープも色々と置いてあります。

イオン・Life・ヨーカドーとオリジナルの麺とスープ。

意外に美味しいんですよ。

 

浮世絵の日本橋

ある意味、日本で1番有名な場所

歌川広重

一番有名なのがこれ。

永田園のお茶漬けで有名 古いね。

歌川広重は色々な日本橋の姿を描きました

上は橋を渡って商店街、蔵が建ちます

橋の手前の下が日本橋の魚河岸

日本橋と云えば商人の街ですが、もう一方は魚河岸です。

威勢の良い声が聞こえてきます。

大きな鮪や鰹も見えます。

殆どの浮世絵が、日本橋に富士山が描かれています。

よほど歌川広重は日本橋が好きだったか。
広重が住んでいたのは、今のアーディンソン美術館の場所。京橋。
 
浮世絵の中には江戸の庶民の生活を垣間見る事が出来ますね。
 

歌川豊国

こんな日本橋も好きです。

渓斎 英泉 

新版浮絵江戸日本橋市中之図 天保頃 

(c.1830)

渓斎 英泉 

江戸八景 日本橋の晴嵐 弘化頃 

(c.1844)

渓斎英泉

『木曽街道続ノ壱 日本橋雪之曙』

葛飾北斎 冨嶽三十六景 

江戸日本橋 天保初期(1830~34)

色々な日本橋の浮世絵。如何でしたか?

楽しめましたか?

 

写楽のはなし

「等々力短信」の志摩泰子さん

阿波徳島のご出身。 

毎月の「等々力短信」への返信の中で、東洲斎写楽について書かれています。 

 

謎の絵師、東洲斎写楽は一般には阿波蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛とされているが、徳島では十代藩主蜂須賀重喜ではないかと根強く囁かれているのだそうだ 

重喜は、秋田新田藩から養子に来た殿様で秋田蘭画の佐竹曙山義敦の四歳上のおじに当たるのだという。

重喜公は、大坂商人との癒着の解消や質素倹約などの改革を進めるが、保守的な気質の強い阿波の人々との間に波風が立ったのが、幕府の知るところになり、32歳で別邸大谷屋敷に蟄居させられた。 

すると一転、治昭に藩主の座を譲り、打って代わったように派手な生活を送り、子供も多く作っている。

その姫は鷹司や彦根藩に輿入れしている。

重喜は大谷公と呼ばれており、今度は贅沢三昧を幕府に咎められ、大谷屋敷を跡形もなく壊し、江戸の藩邸で幽閉されることになった。

治昭の陳謝、老中松平定信のとりなしにより、別邸富田屋敷で蟄居し二十年を過ごし鬱々とした生活を送った。

ちょうどその時期が、写楽活躍の一年足らずと重なることから

阿波に来る前に描いた絵の生き生きとした迫力から、写楽は重喜公ではないかと、密かに言われているのだそうだ

 

息子の治昭が、さらなるお咎めを受ければ藩が取り潰しになるかもしれないと、絵師の名が明かされるのを避けたのではないかというのだ。

 

写楽は寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月にかけての約10か月の期間(寛政6年には閏11月がある)内に、145点余の作品を版行している。

 

柴野栗山 べらぼうの写楽

讃岐国三木郡牟礼村に生まれ、高松藩の儒者・後藤芝山に師事しました。
宝暦三年(1753年)には昌平坂学問所の前身である江戸の湯島聖堂で学びます。
宝暦三年(1753年)18歳で江戸赴き湯島聖堂で林復軒に、明和二年(1765年)には京で国学を高橋図南から学び、『栗山上書』を十代将軍・家治公に献じています。

 

明和四年(1767年)、阿波徳島藩藩主・蜂須賀重喜公に儒学者として仕えました。


蜂須賀重喜公

出羽秋田新田藩二代藩主・佐竹義道公の四男に生まれ阿波蜂須賀家に養子に入りました。
天明八年(1788年)、幕府の指導力を取り戻し農業と上下の秩序を重視した『朱子学』を正学として復興させようとした老中・松平定信公から請われ幕府の儒員となり、寛政二年(1790年)に湯島聖堂の最高責任者となりました。
幕府の儒官であった柴野栗山・岡田寒泉・尾藤二洲(後に古賀精里)は『寛政の三博士』と呼ばれました。
 

栗山先生

昌平坂学問所に於いて朱子学以外の学問(異学)の教授を禁じた『寛政異学の禁』を指導し、朱子学が正学として位置づけられて行きます。
また、林家の私塾扱いであった湯島聖堂は幕府直轄の昌平坂学問所へと移行します。

べらぼうの世界では

斎藤は蜂須賀の殿と話をつけて、替え玉を承諾させた。
そして主命として替え玉を命じられたそうです。

斎藤十郎兵衛(宝暦十三年(1763年) - 文政三年三月七日(1820年4月19日))は、阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者です。
作中で定信公と話を付け、十郎兵衛に一橋治済公の替玉となる様命じた蜂須賀治昭公は十代藩主・蜂須賀重喜公の長男として生まれ、明和六年(1769年)父重喜公の隠居により、家督を相続しました。
治昭公は株仲間を公認し、藍の流通政策を促進しました。
 

「べらぼう」で「写楽=複数人説」を採用した理由 脚本・森下佳子が語る

森下いわく、複数人説を採用することは初期から決めていたとのこと。

「美術史の世界では、写楽の正体が能楽師の斎藤十郎兵衛だったと決着がついていることは存じ上げた上でですが、写楽の絵を並べてみた時に、複数人説の方がしっくりくると思ったんです。短い期間にものすごい数を、しかも一気に出したとしたら、ものすごい短時間で準備しなきゃいけなくて、果たしてこれを1人でやったのかというのが疑問でした。それと2期からの写楽の絵は全身像になるんですが、1期で作った顔をコピペしたみたいに作っているんですよね。そういったところから“何人かで手分けをしたんじゃないか”という気がして。複数人説を取ること、その中心に歌麿を置こうかなというのはそもそも考えていたことです。今はあまり言われないですけど、昔は歌麿説もあったので」

 

久しぶりのべらぼうです。

ロスの方もこれで少し満足したでしょうか?

「ありがた山の寒がらす」

「かたじけなすび」でさぁ。

やっぱりロスですよね。