日本橋に行きました。
バスで自宅から一本。
神田駅で降りて日本橋まで歩きます。
日本橋ふくしま館 アンテナショップ
極太メンマを買いました。
これが旨い。
日本橋 富山 アンテナショップ
氷見うどんの細麺と太麺を買いました
日本橋
暑い暑い。
冷蔵物も欲しいですがこの暑さです。
持ち運ぶのも考えますね。
お多幸 本店
東京のおでんの聖地のひとつです。
関東大震災の年、1923年(大正12年)に創業。昭和23年から銀座5丁目で絶えることない人気店が、平成14年7月に日本橋に移転。
移転の際、まぐろ屋さんに頼んで冷凍保存し守り抜いた継ぎ足しの秘伝出汁
出汁が命なので昭和23年~変わらぬ味を守り続けています。
のれん分けしたお店が東京に何店舗かありますね。
魚すじ、ありますよ。
玉子や大根などの定番のおでん種をはじめ魚すじ・ちくわぶなど、東京おでんならではのおでん種まで、種類豊富に取り揃えています。
ランチは3種類だけです。
お多幸定食・おでん定食・とうめし定食
名物!お多幸特製とうめし
ごはんの上におでんのつゆをたっぷりかけその上の豆腐(おでんのつゆをたっぷり含んだ豆腐)を乗せたもの。
これがシンプルなのに最高に旨い逸品ですこの味を求め、〆にわざわざ2軒目、3軒目利用されるお客さまも多く後を絶ちません。
とうめし定食
頼んでから「お多幸定食」にすればよかったと後悔します。
とうめし
下の鉢は漬けた刺身でした。
ご馳走様でした。
東京のおでんは色が濃いですが、味はけして濃いと云う訳ではありません。
とうめしも、辛くなくスッと食べられます。
山口県のアンテナショップ
美味しそうな日本酒や河豚があります
日本橋高島屋で人形町鳥近の玉子焼を買いました。
さて、ここからは「べらぼう」の話です。
意次が息子・娘の結婚で築き上げた「田沼派閥」
田沼意次
意知は、意次の長男として寛延2年(1749)に誕生した。父・意次は16歳で後の9代将軍・家重の小姓に取り立てられ、享保20年(1735)に田沼家の家督を継いだ。その後わずか19歳で従五位下、主殿頭に叙任され、延享2年(1745)に家重が将軍となると本丸に移り、翌年には小姓頭取に出世。
寛延元年(1748)には御側御用取次見習の身分で小姓組番頭に昇格し、家禄も加増されて2000石に達した。
意次は明和9年(1772)に御用人と兼ねる形で老中に昇格する。いよいよ幕政を主導していくようになるが、一方で家柄という面では弱く、“成り上がり者”と揶揄されるのは避けられなかった。
そのため、意次は自身の政治基盤を盤石なものにすべく、幕府の要職につく人物や有力な大名・旗本の家と姻戚関係を築いた。
田沼意知
嫡男だった意知の妻は石見浜田藩主であり老中を務めた松平康福の娘である
天明元年(1781)に老中松平輝高が死去したことにより、意次の先任の老中は康福のみとなったが、既に姻戚関係にあったため“田沼派”に取り込むことに成功していた
四男・意正は沼津藩主であり同じく老中の水野忠友
六男・雄貞は伊勢菰野藩主である土方雄年
七男・隆祺は丹波綾部藩主である九鬼隆貞の養子となり
娘たちも自分の派閥に取り込みたい大名家に嫁がせ、姻戚関係による“田沼派閥”が構築されていくのである。
これが意次の強さでもあり、一方で「親族や姻戚関係にある家の者ばかり取り立てる」という反感を買うことにも繋がった。
意次が権勢を誇るなか、意知の方も公私ともに順調だった。
明和4年(1767)には19歳で従五位下、大和守に叙任され、天明元年(1781)には幕府の奏者番に抜擢されている。
また、プライベートでは
安永2年(1773)に意明
安永9年(1780)に意壱
天明2年(1782)に意信という息子が誕生している(いずれも生母不詳)。
そして意知は天明3年(1783)35歳の時に若年寄として幕政の中枢に加わる。
これはゆくゆくは老中に就任させるためのステップでもあったが、家督も継いでいない、所謂“部屋住み”の状態である意知が若年寄になることは異例だった。
しかも意知は、意次と同様に中奥に入ることも許され、事実上御用人を兼ねる立場になっていた。これで完全に世襲の準備は整い、“田沼政権”が継承されるであろうことは誰の目にも明白になったのである。
しかし、すぐ目の前には田沼親子が想像もしなかった落とし穴が待ち受けていた。
さて、実は意知と誰袖のラブストーリーはフィクションであり、史実では土山宗次郎に正式に身請けされています
歴史は違います。

“当代一の花魁”として名を馳せた誰袖花魁の身請け話


北尾政演(山東京伝)制作、蔦屋重三郎が出版した『吉原傾城新美人合自筆鏡』(天明4年(1784))。
誰袖は左から2番目に描かれている。
誰袖花魁は、吉原の大見世「大文字屋」の花魁として実在した人物です。
誰袖は「呼出」という最上級のランクの遊女で、当時の大文字屋の稼ぎ頭だった。
美しいことは言うまでもなく、花魁に求められる教養も申し分なかったようだ。
当時流行していた狂歌も詠みこなし、武家の男から文化人まで幅広い客を虜にした。
土山宗次郎とはどのような人物か
なんでそんなに金があるの?
土山は旗本の家に生まれたが、生年は諸説ある。有力なのは元文5年(1740)。
土山の人生が好転していくのは、田沼意次が老中に就任してからのことである。
安永5年(1776)には、幕府の財政や農政を担当する勘定組頭に登用される。
土山は勘定組頭として頭角を現す一方、狂歌をたしなみ、大田南畝をはじめ狂歌師らとも積極的に交流する文化人としての一面も持っていた。
幕府が寛政年間に編纂した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』によると、土山の妻は日下部七十郎の娘だという。
『寛政重修諸家譜』には「御徒日下部七十郎女」とあるので、下級武士の家の娘だったのだろう。
しかし、土山にはまた別の「妻」がいた。
『天明大政録』には、「妻は吉原遊女にて千両にて請出し候由、先妻も同様のものにて七百両にて請出し候」とある。
つまり、「先妻」も遊女であり、700両で身請けして妻としていた。
しかしこの先妻に関しては「不義致し候故二百両金附候て縁付遣し」と記されている
よって、誰袖は3人目の妻ということになる。
土山が誰袖を身請けしたのは、天明4年(1784)春頃のことだと考えられている。
身請けのための金はもちろん、祝儀なども合わせて1200両が支払われたという。
これは、5代目瀬川が鳥山検校に1400両で身請けされたのに次ぐ大金で、江戸中で話題になった。
この時土山は数えで45歳である。遊女は大体27歳前後で年季明けとなる原則があったこと、そして誰袖が人気の絶頂にあった花魁であることなどを踏まえると、誰袖は20歳そこそこだったと考えられる。
失脚と悲運の最期
天明6年(1786年)8月に第10代将軍・徳川家治が死去すると、台頭した松平定信ら反田沼派が老中・田沼意次を罷免する。
同年11月に富士見御宝蔵番頭となる。その後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、武蔵国所沢の山口観音に平秩東作が匿ったが発見され、天明7年(1787年)12月5日に斬首されている。
武士でありながら切腹も許されなかった最期は、寛政改革という名の粛清の先駆けとなった。
大田南畝が文筆活動をいったん断念した背景の一つには、宗次郎の死が影を落としていたといわれています。それほどまでに、宗次郎の失脚は文人たちにとっても衝撃的な出来事でした。
うーん、歴史は深いですね。
でも悪い奴ですね。土山、どれだけ横領したのか?





















