4/4はゲーリー・ムーアの誕生日

フィル・ライノットはアイルランド出身のロック・シンガー、ベーシスト、詩人。 その功績に敬意をこめて「ザ・ロッカー 」と呼ばれる。

かつて日本語では「フィル・リノット」と表記されていたが、近年は「ライノット」でほぼ統一されたため、本項もそれに従う。

 

フィルライノット
Phil Lynott、1949年8月20日 - 1986年1月4日
ゲイリー・ムーア
Gary Moore、1952年4月4日 - 2011年2月6日

「パリの散歩道」

(原題:Parisienne Walkways)

 北アイルランドのギタリスト、ゲイリー・ムーアが1978年のアルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』で発表した楽曲。

1979年にはシングル・カットされている。また、

1993年には、この曲のライヴ・ヴァージョンがライヴ・アルバム『ブルース・アライヴ』からの先行シングルとしてリリースされている。

シン・リジィのフィル・ライノットと共作した曲で共同プロデューサーのクリス・タンガリーディスによれば、ムーアからカセットのデモ録音を聴かされた時点で既に「Parisienne Walkways」というタイトルが付いており、その後ライノットが歌詞を完成させたという。

レコーディングにはムーア(ギター)、ライノット(ボーカル&ベース)、ブライアン・ダウニー(ドラムス)が参加した。

ムーアはピーター・グリーンから譲り受けた1959年製のギブソン・レスポール・スタンダードを使用している。

全英シングルチャートでは11週チャート圏内に入り最高8位に達した。

この曲は、ムーアの生涯において全英トップ10入りした2曲のうちの一つ(もう1曲は1985年の「アウト・イン・ザ・フィールズ」)である。

日本でもアイススケートで有名になりましたよね。

  • 郷ひろみ - シングル「シャトレ・アモーナ・ホテル」(1983年)のB面に、「愛しい他人-パリの散歩道-」と改題したカヴァーを収録。ギターの旋律に合わせて新たに日本語詞をつけたもの。

Hiromi Goもやりますね。

 

「昔パリで恋人と過ごした日々を思い出す」という感じの、切ない思いを綴っています。

ですが、この歌詞の意味は恋人の話ではなくて

この歌詞には詩人としても知られるフィルの想いが込められています。

歌い出しの"I remember Paris in '49"
このParisは勿論フランスの首都パリのことですが、
フィルの父親の名前もまたParisなのです。
そして1949年はフィルの生まれ年で、ブラジル系黒人の軍人だったフィルの父がアイルランド駐在中にフィルの母親と知り合い、フィルが生まれた頃には父親はもう帰国していたそうです。
つまり、この詩はフィルの父親に宛てたメッセージだったのです。

 

「アウト・イン・ザ・フィールズ」

(Out in the Fields)

北アイルランドのギタリスト、ゲイリー・ムーアが1985年に発表した楽曲。

作詞・作曲はムーア自身により、シン・リジィ時代の盟友フィル・ライノットが、ムーアとリード・ボーカルを分け合っている。

ゲイリー・ムーア&フィル・ライノット名義のシングルとしてリリースされた後、ムーアのアルバム

『ラン・フォー・カヴァー』にも収録された。

ムーアは後年、歌詞のテーマについて「北アイルランド問題に限らず、全般的な反戦歌」と説明している。

アウトロ部分には「ジョニーが凱旋するとき」のメロディが引用されている。

 

イギリスでは1985年5月18日付の全英シングルチャートに初登場し、6月8日には5位を記録して、

パリの散歩道」以来6年振りのトップ10入りを果たした。

スウェーデンのシングル・チャートでは5週連続でトップ10入りし、最高2位を記録。

ノルウェーのシングル・チャートでは8週連続でトップ10入りし、やはり最高2位を記録した。

ドイツのシングル・チャートでは14位に達し、ムーアのシングルとしては唯一トップ20入りを果たしている。

Thin Lizzy guitarist Gary Moore

 

 

 

 ゲイリー・ムーアの死因が「心臓発作」であることが、所属レーベルのビクターエンタテインメントより正式発表となった。一部、英タブロイド紙によって大量の飲酒後の「窒息死」と報じられていたのは誤報である。

ゲイリーは4人の子供、娘のシアーシャとリリー、息子のジャックとガスを残して亡くなってしまった。遺族は、彼がニュー・アルバムのレコーディングに入る前の休暇を楽しみにしていたこと、そして自然的原因で亡くなった事実に安堵をしているという。
ゲイリーは新しいギターを購入し、大変興奮していた。そのニューギターを手にし、2011年は世界中でショウを行なう計画を立てていたところだった。


ゲイリーの遺族は、プライバシーを尊重するよう希望しており、これ以上のコメントを発表することはないというが、一方で、世界中のファンや友人たちからの支えと優しい言葉に対し、心からの感謝の気持ちを伝えたがっているという。
 

2011年2月6日(日)、ミュージシャン:ゲイリー・ムーアは、休暇先のスペインにて心臓発作により眠っている間に息を引き取った。享年58歳。

 

 

 

Vivian Campbell - Image: © Jim Wright

Vivian Campbell - Image: © Jim Wright

シン・リジィ(Thin Lizzy)のフィル・ライノット(Phil Lynott)がヘロインの過剰摂取で亡くなる数ヶ月前、ライノットのソロ・アルバムのデモを録音するためヴィヴィアン・キャンベル(Vivian Campbell)は、ライノットの自宅に居ました。

ある朝、キッチンに行ったら、録音には関係なく、またライノットの家に泊っているわけでもないゲイリー・ムーア(Gary Moore)がなぜか立っていました。

ムーアはキャンベルに友好的ではなかったという。キャンベルは、ムーアが居た理由や冷たかった理由について、Vintage Rockのインタビューの中で語っています。

ディオのベーシストだったジミー・ベインとフィル・ライノットは友人で、そのベインからの紹介で、ライノットのソロ・アルバムのためのデモ録音のギタリストとして、キャンベルは1985年に1週間ほどロンドンに行ったという。それはライノットがヘロインの過剰摂取で亡くなる数ヶ月前のことでした。
「フィルはすごくよそよそしかったんだ。彼が何を言っているのか全然わからなくて、ブツブツ言って、冷や汗をかいてた。彼の妻も子供も出て行ってしまって、彼の世話をしているのは運転手の男で、スウェーデン人の家政婦も何人かいた。本当に異様で、奇妙で、シュールで“一体どうなっているんだ”と思ったよ」

「とにかく、僕はフィルの家にいたんだけど、ある朝、お茶を入れにキッチンに行ったら、ゲイリー・ムーアがキッチンにいたんだよ...フィルの家にね!まったく予想外だった。彼が鍵を持っていたのか、それともドアに鍵がかかっていなかっただけなのかはわからない。他のみんなはまだ寝ていて、ゲイリー・ムーアがそこに立っていたんだ。彼はフィルの様子を見に来たんだよ。

彼は明らかに、僕がこの異様の雰囲気の一部であると考えていた。つまり、僕がフィルの薬物中毒に加担していると思ったんだよ。もちろん、そうじゃない。ヘロインなんてやったことないし、やりたくもない、何も知らなかった。でも、ゲイリーは友好的じゃなかった。僕は“ゲイリー、どんな弦を使ってるんだ?”とか話しても、彼からは返事はなかった。

彼は“フィルはどこにいるんだ?”と言い、僕は“まだ眠っていると思う。彼に会っていない”と答えると“じゃあ、ここにいたと伝えてくれ。電話するように言ってくれ”と言った。彼はとにかく冷たかった。僕に友好的ではなかった。

でも、彼を責めるつもりはないよ。フィルは彼の友人だったし、彼は僕がたまたまそこにいたから、僕がフィルの死に加担している一人だと思ったんだからね。残念なことだよ」

 

次回はフィル・ライノットの誕生日の8月にお会いしましょう